貨幣は本当に不妊なのか 大黒『嘘と貪欲』#1

嘘と貪欲―西欧中世の商業・商人観―

嘘と貪欲―西欧中世の商業・商人観―

  • 大黒俊二『嘘と貪欲 西欧中世の商業・商人観』名古屋大学出版会、2006年、38–50ページ。

 名著から簡単なメモ。徴利はいくつかの理由で禁じられていた。聖書に禁止の文言がある。時間は神のものだから売り買いの対象にしてはならない。貨幣に関しては、所有権と使用権を分離できないのだから、使用するものに自動的に所有権が移ってしまう。だから、貨幣に関して使用料として徴利を取り立てることは許されない。
 例外的に認められていたのが、損害賠償である。しかしこれにも厳しい制限が課せられていた。アクィナスによると、たとえば家屋を貸して、その家を壊された者は、壊されたものと等価のものでもって賠償を受けられる。しかし、緊急に友達に金を貸してといわれて貸した結果、目前にあった儲ける機会を失ってしまった人はどうか。これにも一定の賠償は認められるものの、厳しい制限が課せられるべきだとアクィナスはした。まず等価物での賠償は必要ない。というのも、そこで期待されている利益は可能態としての利益なのだから、家が破壊された時のように現実態にあるものが失われたとみなしてはならないからだ。また、賠償額の算定はなるべく短く見積もられなければならない。たとえば、貸していた金が返ってくるのが遅れて損害が生じた場合、あくまで遅延期間につき、賠償が求められなければならない。
 トマスによる厳しい制約は、しかし商業経済の発展により、次第に崩れていく。実際、アクィナス自身に己の理論を掘り崩していく場面が見られる。彼は投資貸借について、商人に金を委託した者は、委託した金から生じる利益の一部を要求しうるとしている。しかし、委託した場合、使用権が移転しているのだから、所有権も移転しているのではないか。それなのになぜ利益を請求できるのだろう。また委託した貨幣から利益が生みだされたからといって、その利益を貨幣が生みだしたといえるのだろうか。それは委託を受けた商人が生み出したのではないだろうか。もし利益を委託者が請求できるなら、それは貨幣が農園のごとく利益を生む性質をもつと考えなければらない。しかし、これは定説である貨幣不妊説に反する。
 こうして、消費貸借にせよ投資貸借にせよ、徴利を正当化する必要が、続く理論家たちに残された。

オッカムの正統論 将基面『ヨーロッパ政治思想の誕生』

ヨーロッパ政治思想の誕生

ヨーロッパ政治思想の誕生

  • 将基面貴巳『ヨーロッパ政治思想の誕生』名古屋大学出版会、2013年、187–208.

 中世の政治思想についての基本書から、オッカムを扱った箇所を読む。大胆なパラフレーズにより、基本書のお手本ともいってよい明晰さを獲得している。

 「政治」に関する問題をオッカムが論じはじめたのは、教皇ヨハネス22世に対抗するためであった。教皇フランシスコ会の清貧の教義を異端であると宣言したのにたいし、お前こそが異端だと反論したのである。このように論じるために、オッカムは異端の意味を転換させた。というのも、従来のように異端とは教会による異端宣告に他ならないとすると、教皇を異端視することが不可能になってしまうからである。そこでオッカムは、異端とはキリスト教の教義から逸脱した状態だと再定義する。教義は聖書などの文書の記述で決まる。文書の記述は、必要な知識を備えた者であれば、誰でも理解できる。
 ここからいくつかの結論が引き出される。まず当然、教皇も異端になりうる。しかもその異端認定は、文書を読める者であれば誰にでもできる。すると、(オッカムの理解では現実にそうであったわけだが)異端の教皇に、正しい聖書理解をもった多くの人々が対峙するということが起きうる。これは実に危険な状況である。なぜなら教皇は人々に信仰を権限をもつからである。異端が人々に強制され、キリスト教世界が破滅しかねない。そのため、教皇は異端の嫌疑をかけられた時点で、権力の行使を停止させられなければならない。また、一般の信徒にも義務が課せられる。誰かが教皇や高位聖職者の異端的見解を正しくも指摘した場合は、その人物と連帯しなければならない。正統信仰の名の下での団結が、キリスト教世界を維持する役割を果たすであろう。
 ヨハネス22世に続くベネディクトゥス12世は、オッカムの懸念をさらに増す決定を下した。教義の正統性は、まったく排他的に教皇が決めるものとしたのである。これでは、異端が正統とされてしまう。このような決定権を教皇権がもつはずがない。そこでオッカムは教皇権の及ぶ範囲を、聖書の分析を通して確定していく。それは同時に教皇権と世俗の権力の関係を定めることにもなった。というのも、オッカムによれば、教皇が異端となった場合は、神聖ローマ皇帝が介入すべきだからである。しかし世俗権力ができるのはここまでである。ここを超えて、世俗権力が人間を教化することはできない。
 では教皇権はなにができるか。ここで本書の記述がうまく消化できなくなる。本書によれば、教皇権は正統と異端の線引きを決定することはできない。それは文書によってあらかじめ決定されている。しかし、文書から読み取れる正統な教義を、信徒に強制することが教皇には許される。実際、これが許されるという事実に基いて、教皇権の停止が説かれていた。しかし、オッカムは同時に、一人ひとりの信徒に信仰の自由を認めていたともいう。たとえば、自らの正統信仰に確信をもっていれば、それを捨てる義務はない。なぜなら納得せずに教義を撤回しても、それは良心に反する行為となり、それゆえ倫理的な行いとならないからである。それゆえ、一般信徒は異端の嫌疑をかけられたからといって、即座にどうこうなるわけではない。信仰を強制されない。以上をまとめるとどうしても、教皇は一般信徒に信仰を強制できると同時に、信仰を強制できないことになってしまう。
 おそらくどこかで私は読みまちがいをしているのだろう。これの修正は宿題としたい。

激変論者を救う古典 Frans van Lunteren, "Geology and Christianity"

 ホーイカースの『自然法と神の奇跡』を振り返る論考を読む。この本は、地質学の歴史記述における偏った記述を正すことを狙っていた。伝統的な歴史記述は、斉一説の側に立ってなされてきた。ハットン、プレイフェア、ライエルに代表される立場だ。この立場によると、地球の過去に起きた事象は、現在の事象と同じように説明されねばならない。彼らの標的となったのは激変論者であった。キュビエ、セジウィック、バックランドの立場である。批判者からすると、この立場は過去の事象を、現在の事象とまったく異なるものにしてしまうことで、過去を理解する可能性を閉ざしてしまっているというのだった。

 しかし、この対立図は精査には耐えられない。激変論者は、過去において現在と違う自然法則が通用していたと言っていたのだろうか。そうではない。彼らも自然法則が一貫していることは認めていた。彼らが認めなかったのは、その自然法則にしたがって起こる事象の規模や、そのような事象が起こる頻度が、過去から現在にいたるまで一定であるという考え方であった。むしろ彼らは、同じ自然法則に乗っ取りながらも、自然世界の環境は大きく変化すると考えるのである。このような立場から見ると、斉一論者の説明には不備があった。もし過去から未来にいたるまで、起こる事象の規模などが変わらなかったとすると、どうして化石の証拠から、種が大きく交代しながら、しかも交代過程が決して循環せずに、直線的に現代にいたるなどということが起こるだろうか。この点をハットンやライエルはうまく説明できていなかった。

 伝統的な説明は、激変論者は聖書の記述を重視する宗教側であり、斉一論者は科学の側に立つように描きだしてきた。しかしこれも歴史の実情と食い違っている。たとえばハットンの斉一説は、明らかに彼の宗教的な信条に裏打ちされていた。またそもそも宗教的な前提が科学の発展とあいいれないわけでもない。キリスト教が有する直線的な歴史の観念は、地球の歴史が(循環せずに)直線的に現代にいたっていると考えるのを容易にした可能性がある。

 こうしてホーイカースは、激変論者とキリスト教の信仰の果たした役割を正当に評価するように要求するのだった。

 ここまで読むと、ホーイカースの洞察が、近年のマーティン・ラドウィックの研究に引き継がれている事がわかるだろう。実際ラドウィックは、ホーイカースの研究はパイオニア的なものだと認めている。ラドウィックが成し遂げたことをみるならば、それを支えたホーイカースの研究を科学史の古典と認めても問題あるまいと、著者は言うのだった。

関連文献

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Earth's Deep History: How It Was Discovered and Why It Matters (English Edition)

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法廷に立つ天文学者 Rublack, The Astronomer and the Witch, ch 12, #1

The Astronomer & The Witch: Johannes Kepler's Fight for His Mother

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  • Ulinka Rublack, The Astronomer and the Witch: Johannes Kepler’s Fight for His Mother (Oxford: Oxford University Press, 2015), 245–255.

 ケプラー魔女裁判で発揮した技能を分析した記述を読む。ケプラーは、母カタリーナが魔女の嫌疑をかけられた裁判で、彼女の弁護のために文書を作成した経験がある。この際ケプラーはすべての証言を文書で提出させるよう求めた。証言の分析は、彼が長年行ってきたことだった。古代の文献が伝えるさまざまな情報のうちなにが信頼できるかを、文献学をもちいて選り分けることに膨大な時間を費やしてきた。また、天文学の領域でも、報告された観察結果が信頼できるか判定するためには、いつ、どこで、だれが、誰と一緒に、どんな目的で観察を行ったかを見定めなければならなかった。このような条件への配慮は、自分の観察結果を信頼できるものにするためにも欠かすことができなかった。ケプラーは文献学や天文学を犠牲にして法廷に立ったのではない。それらの領域での長年の経験が、彼を手練の弁護人たらしめていたのだ。

 母にかけられた疑いをケプラーは次々と退ける。ある人物を死刑にいたらしめたり、拷問にかけるためには、十分な証拠がなければならない。証拠の判定にあたっては、どれほど有能な人間であっても誤りうるという想定のもとで慎重を期さねばならない。だがこの原則が母の件ではまったく守られていない。悪評を証言した者の多くは、若年であり、信頼に足る証言をできるとは考えられない。年配の女性の証言もあるが、彼女たちが証言している事案が起きたのは数十年昔であり、記録と突き合わせるなら、彼女たちはそのころ7歳とか10歳であったりする。やはり信頼できない。そもそも神聖ローマ帝国の法は、ある人を死刑にいたらしめるためには、最低でも二人の信頼に足る証言が必要だとしており、しかも証言者はみな男性でなければならないと定めているではないか。

 しかも証言が出てきた時期を調べてみると、大半は、ある家族が魔女ではないかという噂をたてはじめてから出てきたものである。法学の基本的な見解からすると、信頼できる証言であるならば、そのような噂が広がる前から存在していなければならない(噂に引きづられている可能性があるため)。こう考えてみると、非常に古くから母と交際をもっている老人たちが、母を魔女だと考えていないということは重みをもってくるのではないだろうか。

 なるほど母には粗暴なところがあり、人様の家に乱入してしまったことはある。しかしこのことと、彼女が魔女であるということは別の問題である。もしこれで魔女とみなされるならば、おせっかいやきな女性はみな魔女ということになってしまうだろう。また、母が魔術によって人々を病気にかからせたという嫌疑も信頼に足らない。それらの症状はみな現在の医学によって説明可能である。そもそも人間や家畜はよく病気にかかる。

 母が呪文を唱えながら、怪しげな薬草を処方しているという訴えはどうだろうか。まず、これは彼女の長年の経験の蓄積の上に立つものであり、学問的な知識とはいえないものの、それなりに有効性のあるものである。実際、彼女が使っている薬剤の材料を調べたところ、現在の医学が有効性を認めているものであったこともあった。処方のさいに彼女がまじないをとなえているのはたしかである。しかしこれは祈りの言葉だと考えるべきだろう。そこには異端的なものはない。それは伝統的なものだ。もし問題があるとしたら、それがカトリックの伝統から来ていることかもしれないが、そのことは魔術の実践を何ら証明しない。

 自然に関する知識が、実験や観察に依拠しなければならないとなったとき、ではその実験や観察の報告の信頼性はどう確保されるのかが問題となった。その判定基準として、法廷での証言の信頼性の判定基準が援用されるということがあった。このように指摘する歴史研究は多い。法学と科学のそのような連合が現実に存在していたことを、法廷に立つ帝国付数学者の姿は伝えている。

年代学がつくる文芸共和国 Grafton, "Chronology, Controversy, and Community in the Republic of Letters"

Worlds Made by Words: Scholarship and Community in the Modern West

Worlds Made by Words: Scholarship and Community in the Modern West

  • Anthony Grafton, "Chronology, Controversy, and Community in the Republic of Letters: The Case of Kepler," in Worlds Made by Words: Scholarship and Community in the Modern West (Cambridge, MA: Harvard University Press, 2009), 115–136.

 ケプラーの活動のうちで、年代学がもっている意味について考察した論文を読む。ケプラー研究が盛んになるなかにあっても、彼の年代学研究を調べる歴史家は少ない。年代学はとにかくテクニカルなのだ。その人を寄せつけない性質は、初期近代からすでに認識されていた。しかし、まさにその困難さがケプラーを引きつけていた。また年代の同定にあたっては、天文学上の記録との突き合せが重要な意味をもつため、この領域は天文学者たるケプラーの守備範囲であったといえる。

 ケプラーは長きにわたって年代記に関心を持ちつづけた。しかし、彼は膨大なノートを残しつつも、結局この分野に関してまとまった著作を出版することはなかった。出版されたものは、同時代の学者たちとの手紙のやりとりをもとにした著作にとどまる。しかしまさに、この書簡形式という点にこそ、ケプラーが年代学に認めていた意義があるのではないかとグラフトンは説く。年代学の問題について議論を続けることが、互いに対立しながらも、なお敬意を払いながら交際を続けることのモデルとなりうるとケプラーは考えていたのではないかというのだ。

 この点でとりわけ興味深いのは、ケプラーがイエスの生年の確定にあたって、イエズス会の学者の計算を支持し、それを天文学上の証拠で補強した事実である。この生年(紀元前4年)は、カルヴァン派のヨセフ・スカリゲルが計算した年とは異なっていた(紀元前2年)。ルター派として、同じプロテスタントに属するケプラーが、尊敬してやまなかったスカリゲルの見解を拒絶し、イエズス会の側に立ったというのはショッキングであった。このことは、当時イエズス会側が、スカリゲルの著作を否定する学問上のキャンペーンを張っていたことを考えるとさらに驚くべきものとなる。実際、ケプラーによるスカリゲルの否定は、イエズス会側に喧伝されることになる。もちろん、この動きもケプラーは支持しなかった。彼は必要以上にスカリゲルを批判することをよしとしなかった。

 ケプラーにとって、年代学とは、見解の対立のみならず、宗派の対立もまた認めながら、それでも友好的に学問的なやりとりを続けるにあたってのモデルとなる学問であった。もちろん、そうやって作られた文芸共和国のなかに、多くの亀裂が走っていたことは認めなければならない。また、ケプラーすら時として関係を壊してしまうような言葉を発してしまったこともある。なによりも、彼の融和的な姿勢は、カトリックプラハで皇帝の庇護を受けたルター派の数学者という特権的な身分によってこそ、可能になったものであった。それでも、年代学という科学と人文学が交差する点で、後の学問共同体のモデルとなるようなやりとりのコードが形成されていたことを私たちは見逃すべきではない。

線香花火のような人生 村山「儚さと空しさと満たされなさと」

  • 村山達也「儚さと空しさと満たされなさと 人生の意味と死の関係についてのごく部分的な考察」『東北哲学会年報』No. 28、2012年、1–13ページ。

 人生の意味について、儚さという観点から考察した論文を読む。人生が儚く、空しいとは、どういう心情なのだろうか。なにか喜びや充実感を日々感じても、いつか死ぬのだから、喜びは儚い。そんな喜びを多く積み上げられたとしても、人生は儚いと感じてしまう。ここで儚いとは、愛おしかったり素晴らしかったりするものを享受はできるものの、それを味わい尽くすには十分な時間が与えられておらず残念だと思われることを指す。だとすると人生が儚いとは、いろいろな喜びがあっても、やがて死によって生が断ち切られてしまう以上、どう生きたとしても喜びを味わいつくすことはできず、最終的に完全な満足は得られないという心情をあらわしている。このように全体としての充足がないならば、部分の充足に意味はないと感じてしまうのは、私たちが人生をひとつの劇や楽曲のようにとらえることから来ている。これは理解できる考え方ではあるが、錯覚であると著者は考えている。「人生が完全な作品にはならないとしても、それでも人生を喜ばしく生きることはできるのである」(13ページ)。

会計検査院の権限の意味 瀬畑『公文書問題』

公文書問題 日本の「闇」の核心 (集英社新書)

公文書問題 日本の「闇」の核心 (集英社新書)

  • 瀬畑源『公文書問題 日本の「闇」の核心』集英社新書、2018年、69–79ページ。

 会計検査院の果たすべき役割を、特定秘密の問題と関連づけて論じた論考を読む。会計検査院は内閣から独立の組織であり、日本国憲法によって国の決算を「すべて」「毎年」検査するものとされている(第90条第1項)。この規定は戦前の反省を踏まえたものだ。1889年に制定された会計検査院法では、会計検査院が検査できない領域が定められた。たとえば軍の機密費である。その後、軍関係の予算の検査はさらに困難になっていった。出兵に必要な物品の調達にかかる費用については、検査が必要ないとされたり、軍事機密の閲覧をたとえ許されたとしても、そこで得た情報を報告書で使うことはできないといった決まりがつくられた。さらに戦争にあたっては、細目なしで予算を軍に与え、戦後に会計を閉めてから検査するという仕組みができた。これらの制度があったからこそ、軍は検査院や議会の検査を経ずに、多くの予算を獲得し、自由に使用することができた。会計検査院の機能不全が、いわゆる軍部の暴走の一因だった。この反省を踏まえ、戦後は会計検査院が例外なく決算を毎年検査するという規定がつくられたわけである。

 とはいえ、会計検査院が厳密な検査を行えない領域が、現在でもあるという。たとえば内閣官房機密費、外務省機密費、警察庁機密費である。このような領域のひとつに特定秘密を組みこむことを内閣官房は探った。実際、特定秘密保護法の条文上は、決算の証拠書類に特定秘密が含まれていた場合、書類を会計検査院に提出しないことが許される書き方になっている。しかしこれは憲法の規定に反するのではないか。毎日新聞の報道など、紆余曲折を経て、最終的には書類の提供を拒むことは実務上は考えられないという回答が首相から引き出された。

 著者の主張は2点ある。第一に、条文が憲法と整合しないのは法律の不備なのだから改正すべきである。第二に、そのような不備を明るみにだし、それを補うような答弁を政府から引き出すにあたっては、報道の役割が極めて大きいということである(この件では、毎日新聞がその役割を果たした)。