ガッサンディと占星術 Sribnai, Pierre Gassendi

  • Judith Sribnai, Pierre Gassendi: le voyage vers la sagesse (1592–1655) (Montréal : Les Presses de l'Université de Montréal, 2017), 196–201.

 ガッサンディに関する最新のモノグラフから、彼の占星術批判を扱った部分を読む。史料として、1645年のヴァロア宛て書簡、1650年出版のモラン宛て書簡、そして1654年に出版された『日食に関する見解』を用いている。後の二つはフランス語で、最初の一つはラテン語からTaussigがフランス語に訳したものを使っている。どうやら著者はラテン語を読まないようだ。

 重要なのは、1654年に出版した著作『日食に関する見解』の分析である。この本によるとまず日食は通常の自然現象なので、それは凶事を予告したりするような意味はない。この点で判断占星術は間違っている。ではなぜ人は日食のような現象に意味を読み込んでしまうかというと、人間はなにかにつけ自分を中心に考えるので、どんな現象でもなにか自分にとっての意味があるのではないかと考えるからだという。このようにガッサンディ占星術の根には人間中心主義があると考えて、それを批判していた。

ガッサンディとコペルニクス説 Bloch, La philosophie de Gassendi

  • La philosophie de Gassendi: nominalisme, matérialisme, et métaphysique (La Haye:  Nijhoff, 1971), 326-334.

 ガッサンディに関する基本書から、彼のコペルニクス説への対応を調べた箇所を読む。恐るべきことに、著書はガッサンディが残した文書のほぼすべてを読みこんでいる。全集の全体はいうに及ばず、ペレスクとの書簡、そして草稿にまで目を通している。

 ガッサンディはキャリアの初期から、一貫して太陽中心説を支持していた。そのことは、彼が1632年2月26日にペレスクに宛てた書簡で、「コペルニクスの見解にしたがって、私は太陽が世界の中心に位置していると考えています」と書いていることからも伺える。そのため、彼は力を尽くして、コペルニクス説の確からしさを説き、それへの反論を逐一斥けていった。しかしコペルニクス説を確からしいとはいえても、それが真理であるとは、ガッサンディは断定できなかった。それは聖書に反するという疑いがあり、実際に、支持者であるガリレオは断罪されていたからである。ガッサンディガリレオに対する断罪の正統性と重要性を可能な限り低く見積もろうとはしているものの、それを無視することは不可能であった。

 最終的に『集成』のなかでは、コペルニクスの見解は確からしいものの、確実性をもって証明されてはいない。そのため、別の仮説を取ることも可能である。特にコペルニクスの仮説に問題を感じる人は、ティコの仮説を採用すればいいだろう、という結論が示されている。

 しかし、この『集成』での最終的な見解は、執筆の最終段階で挿入されたものであった。実際に、1642年に書かれた『エピクロスの生涯と学説』の草稿では、ティコの学説は言及すらされていない。また、1642年から43年に書かれた同書の草稿では、ティコの学説は短く言及されているものの、それを支持することが勧められてはいない。同じことは、49年の『註釈』にもいえる。ここから、ディコの学説を勧めることは、信仰が説く地球中心説と、理性が説く太陽中心説の併存を認め、二重真理説に陥ってしまうことを避けようとするガッサンディの苦肉の策であったと、著者は結論づけている。

 この主題に関していえることは、ほぼこの内容で尽きているように思われる。それほどに決定的な研究であるという印象を与える。

天文学に従事するガッサンディ Humbert, L'astronomie en France, ch. 4

  • Pierre Humbert, L'astronomie en France au dix-septième siècle (Paris: Université, 1952), 78–107.

  必要があって、基本文献を10数年ぶりに読み返す。哲学者・文献学者として知られるガッサンディを、天文学者として評価するとしたら、どう評価できるかを問うた章である。

 史料としてガッサンディ天文学関係の著作をほぼ網羅的に見ている。とりわけ著者が重視するのが、全集の第4巻に収められたガッサンディの天文日誌である。ここには400ページ以上に渡って、ガッサンディの日々の観測記録が付けられている。この他にも、彼が友人・パトロンであるペレスクと交わした書簡や、その他各地の天文学者たちと情報交換のためにやり取りした書簡が重要な史料となる。これらの記録により、17世紀の(ケプラーやティコ・ブラーエのようなプロ中のプロとは違う)いわばアマチュア天文学者たちが、日々どのような活動をしていたかが分かるという。この他にも、ガッサンディが観測成果を報告するために執筆したパンフレットサイズの様々な著作が参照されている。

 天文日誌と書簡という史料を駆使した結果、ここには哲学史科学史で見られるガッサンディ研究とは異なる姿が見られる。ガッサンディは星を見るために深夜まで起きている。星を見るために山に登る(しかし、しばしば天気が悪くて無駄骨となる)。星を見ながら、正確な時間を知るために、階下の部屋に助手を待機させておいて、足を踏み鳴らして知らせた時点での時刻を記録させる(もう天気が悪いからいいかな、と助手が勝手に休憩に入っていて激怒したりする)。精密な月の地図を描くために、腕のいい絵師をペレスクと共に探す。また、天文日誌に付けられた毎日の気候の記録からは、最近ほとんど雨が降らないだとか、寒すぎて人が死んでいっているだとか、雷に打たれてこの前何人も死んだだとか、その手の通常の歴史記述ではあまり拾われないような事実が浮かび上がってくる。結論としては、ガッサンディ天文学上の重要な発見は基本的にしていないけれど、長年に渡って精密な観測をして、それを残してくれているのは非常に価値があるということになっている。

 この研究の最大の問題は、ドキュメンテーションの貧弱さである。というより、注がないために、拾われている情報が全集なりペレスク宛の書簡のどこから引かれているかが分からなくなってしまっている。

 ガッサンディ天文学上の(理論ではなく)活動を見た研究としては、依然としてこの研究が最も詳細なのではないかと思う。近年の科学史からはこの手の史料を扱う能力が失われてきているため、この研究が更新されることは当面ないかもしれない。

顔を持たぬために歴史を書くこと 慎改『ミシェル・フーコー』

 

 著者は、フーコーの著作、講義録の見事な翻訳と、明晰な解説をすでにいくつも世に送り出している。本書は、その著者による待望のフーコー入門書である。入門書であるのだから、フーコーの主要著作の内容紹介はもちろんなされる(まだ邦訳のない『肉の告白』の解説もなされる)。しかし、それと並んで本書が重視するのは、著作と著作のあいだにあるつながりである。フーコーは次々と主題を変える。その変化をどう説明すればいいのか。

 著者によれば、最初期のフーコーの問題意識は、近代社会のなかで失われた人間性をどう取り戻すか、というものだった。しかし、まもなくこの問題意識が問いの対象となる。なぜ失われたものを、見えなくなってしまったものを私たちは求めるようになったのか。フーコーは歴史研究により、そもそも今の私たち・失われた私たちとか、見えているもの・見えないものという区別自体が、歴史のある時点で出現したものだと考えるようになる。この区別の出現は、18世紀の学問の多くの領域で認められる。その背後には、人間を個人として取り出し、その(表に現れる行動というより、その行動を引き起こしている内なる)本性を見極めることで、統治を円滑に進めようという新しいタイプの権力の出現があった。

 個々人のあり方を特定しなければならないという任務の起源は、古代に求められるようになる。そこで主題となるのが性である。古代のギリシア、ローマでは、性に関して自己を律しなければならないという考え方が見られる。しかし、律するのはあくまで自律的な人間であるためである。これに対して、修道制の発達以降のキリスト教のうちでは、自己への強い不信感が見られる。堕落によって、私たちのうちには悪しき情欲がやどってしまった。この情欲の働きを、告白などの実践によって明らかにしなければならない。こうして、ある人の欲望を丹念に調べることで、その人がどういう人であるかを特定しようという活動がはじまる。このようなギリシア、ローマを経てキリスト教へという経緯は、最晩年のフーコーによって、性の問題に限らない、およそ自分と真理(ここには、なすべきことという規範も含まれる)の関係をめぐる歴史として語り直されることになった。

 本書を読むと、フーコーの様々な見解のあいだにつながりがあることが分かる。自分の関心がある領域について、彼の著作をつまみ食いし、その偶像破壊的なテーゼに衝撃を受けていたといったタイプの読者(私のような読者)にとっては、断片的な知識に文脈が与えられるという発見がある。ただ、フーコーをまったく読んだことがない読者に、本書がどれほど理解されるかは、私にはよく分からない。著者はそのような読者を念頭において書いたというものの、著作間のつながりをつけるという力点の置き方からして、どうしてもすでにフーコーを読んだことがある人向けになっているところがあると思う。

 著者の他の書物と同じく、本書もまた難解なフーコーの著述に明晰な解説を与えることに成功している。これは皮肉なことなのかもしれないが、レトリックをはぎ取った形でフーコーの主張が取り出されたことで、その疑わしさが際立つ箇所がある。例として、『言葉と物』を解説した次の一節を見てみよう。

事物の存在を表象の外部に想定することがなかった古典主義時代の思考にとって、事物と表象とがどこでどのように結びつくのかという問いは無用のものであった。つまり、その思考にとっては、表象を自らのために構成する者としての人間は不在であったということだ。そしてそのように表象を基礎づける者の存在が問題にならない以上、そうした存在に固有の有限性も問題とはなりえなかった。有限な存在者であるという事実は、無限ではないということ以上の意味を持ちえなかったのである(71ページ)。

17世紀の哲学者が、事物の存在を表象の外部に想定しないというのは衝撃的だ。熱さの表象と似たものが事物の側にないというのは、ガリレオデカルトにとって重要なテーゼではなかったのだろうか。人間という「存在に固有の有限性も問題とはなりえなかった」というのも信じがたい。『省察』の「第三反論」のなかでホッブズは、その先がないような端っこを私たちが考えられないというのが、有限な私たちにとっての無限の意味だと言っていないだろうか(『デカルト著作集 第2巻』白水社、2001年、226ページ)。ロックの「私たちの知性が取り扱うのに適した対象と適さない対象とをみる必要がある」という問題意識は、まさに「表象を自らのために構成する者としての人間」を問題にしてはいないのだろうか(『人間知性論』大槻春彦訳、岩波文庫、第1巻、1972年、19ページ)。ホッブズやロックごときは、フーコーの歴史記述からすれば些末なのかもしれない。しかしヒュームはどうなるのだろう。ヒュームはカントにとって決定的な意味を持っており、そしてカントはフーコーの記述の中核に位置している。

 このような疑わしい主張をフーコーが行ったのは、人間の人間性が問題になったのが、18世紀になってからだというテーゼを守りたかったからだろう。そこに固執したのは、自分がかつて持っていた問題意識自体が、近代の入り口で一挙に構成されたことにしたかったからだろう。それにより、自分のあり方が明確に理解でき、それによってかつての自分(と自分が生きる時代)から距離を取ることができる。この意味で、フーコーは真に「自己から抜け出すための哲学」を実践していた。固定した「顔を持たぬために書くこと」はしかし、彼の歴史研究を歪めてもいた。

アルミニウス主義者の夢 Lüthy and Spruit, "the Frisian Philosopher Henricus de Veno," #3

 デ・ヴェノを理解するためにおさえておかなくてはならないもう一つの文脈は、いわゆる「ウォルスティウス事件」である。コンラッド・ウォルスティウス(フォルスティウス)は、シュタインフルトのギムナジウムの神学教授であった。1588年に設立されたシュタインフルトのギムナジウムは、1614年にフローニンゲン大学ができ、1630年にデーフェンテルに学校ができるまでは、カルヴァン主義の牧師をオランダに供給する重要な拠点であった。実際、オットー・カスマンやクレメンス・ティンプラーという著名な神学者が、シュタインフルトで学んでいる。

 事件の発端は、1610年にウォルスティウスがライデン大学の神学教授に任じられたことにあった。ヤコブス・アルミニウスの後任である。ここから10年あまりに渡るアルミニウス主義者と反アルミニウス主義者の争いがはじまることになった。抗争は最終的に、1619年のドルトレヒト公会議で、ウォルスティウスがオランダから追放されるまで続く。

 この争いで重要な役割を果たしたのが、デ・ヴェノの同僚の神学教授視ブランドゥス・リュッベルトゥス(Sibrand Lubbert, ca. 1555–1625)であった[この人物については、W. J. ファン・アッセルト編『改革派正統主義の神学 スコラ的方法論と歴史的展開』青木義紀訳(教文館、2016年)、162ページを見よ]。カルヴァン主義の正統派を自認するリュッベルトゥスは、ウォルスティウスとだけでなく、彼が正統派と相容れないと考えた多くの神学者と論争を繰り広げていた。論争は、アルミニウスの弟子であるシモン・エピスコピウスがフラネカーにやってきて、リュッベルトゥスと公開討論を行うなど激しさを増していく。

 ウォルスティウスの見解で最も問題視されたのは、神と被造物にアリストテレスの10のカテゴリーを一義的に適用しようとした点であった。これにより、神が物質化されてしまうという危惧を多くの神学者が抱いたのである。

 デ・ヴェノがウォルスティウスをめぐる論争にたいしてどのようなスタンスをとっていたのかは分からない。しかし神学の真理と哲学の真理が一致すると強く信じ、また正統的な教義を定めるのは教会ではなく国家であると考える点で、デ・ヴェノはウォルスティウスと見解を同じくしていた。ウォルスティウスの事件が起きる前後に、デ・ヴェノの職務停止が起き、復職の際には「精妙な問い」に取り組むのを避けるように、と条件が付けられていることを考えるならば、デ・ヴェノがウォルスティウスのようなアルミニウス主義者に接近していると認知されていた可能性は十分考えられる。

 デ・ヴェノの著作は出版されず、その後忘れ去られてしまった。しかし彼の学説は確かに受け継がれている。彼の学生であった原子論者ダヴィド・ゴルラエウスである。彼はデ・ヴェノの2元素説を受け入れただけでなく、アリストテレスの場所の定義を、ユリウス・カエサル・スカリゲルのそれに置き換える点でもデ・ヴェノにならった。それ以上に、哲学と神学の一致を信じるという点で、デ・ヴェノの精神はゴルラエウスに継承されているのである。

 アルミニウス主義者のなかには、たとえ見解の不一致があっても、理性にもとづく議論を続ければ、やがて一致にいたるとする者たちがいた。そうして、宗派の分裂すら克服できると考えていたのである。もし、デ・ヴェノがアルミニウス主義者に共感を寄せていたとするなら、あるいは彼の不可解なローマ訪問も、キリスト教の統一を夢見たための行動だったのかもしれない。

関連書籍
改革派正統主義の神学―スコラ的方法論と歴史的展開

改革派正統主義の神学―スコラ的方法論と歴史的展開

 

 

モーセとイタリアの自然学 Lüthy and Spruit, "the Frisian Philosopher Henricus de Veno," #2

Christoph Lüthy and Leen Spruit, “The Doctrine, Life, and Roman Trial of the Frisian Philosopher Henricus de Veno (1574?–1613),” Renaissance Quarterly 56 (2003): 1112–1151.

 1598年に釈放されたデ・ヴェノは、バーゼルを経由して、故郷に戻る。戻ってきた彼は、法学、哲学、神学の学位を国外で取得したと自称していた。このうち法学の学位に関しては確かに取得していた可能性がある。しかし、残りの二つについては間違いなく嘘であった。

 1601年にフラネケル大学の倫理学・自然学教授となる。年収は600フロリンであった。その大学生活は平穏ではなかった。1609年に総長に就任したものの、同僚から訴訟を起こされている。訴訟の原因は正確には分からない。彼の特異な教育内容と、その行動(傲慢であったと伝えられている)が関わっていたのだろう。他にも、神学的な問題が絡んでいたのかもしれない。彼は一時的に職を解かれたものの、1611年に再度教授職に戻っている(ただし、年収は100フロリン下がった)。1613年に亡くなった。

 デ・ヴェノの主催した討論を見ると、彼が神学上の真理と哲学上の真理の一致を強く唱えていたことが分かる。いわゆる二重真理説を批判する点で、オットー・カスマン、ルドルフ・ゴクレニウス、ニコラウス・タウレッルスのような当時のプロテスタントの知識人にならっていた。哲学と神学を一致させるために、デ・ヴェノは聖書が自然学上の真理の源泉となると主張する。彼にいわせれば、アダム、ノア、ソロモンは、「自然学の著者」なのであった。彼がいわゆるモーセの自然学の構想を抱いていたことが分かる。

 自然学の学説としては、デ・ヴェノは元素の数を2つに減らしている。元素は土と水だけである。それぞれ乾、湿の性質をもつ。火は元素ではない。空気は単純な物体ではあるものの、混合物を構成するような元素ではない。それはむしろ天からくる熱を伝達する役割を果たす。また質料と形相の結合を可能にする精気を想定している。この精気が熱を道具として使って、様々な現象を引き起こす。これらの学説を、デ・ヴェノはイタリアの自然哲学者ジローラモカルダーノから引き継いでいた。

 政治を主題とする討論では、あるべき宗教的な実践と教義を決めるのは国家であり、教会ではないとデ・ヴェノは主張している。最後に、徴(しるし)を扱う討論では、徴によって意味されているものは、徴と同じ場所にはないという説が唱えられている。これは、聖化されたパンとぶどう酒とおなじ場所に、キリストの身体と血はないというカルヴァンはの聖餐式解釈を正当化する役割を果たしていた。

関連書籍
天才カルダーノの肖像: ルネサンスの自叙伝、占星術、夢解釈 (bibliotheca hermetica 叢書)
 

 

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フラネケルからローマの監獄へ Lüthy and Spruit, "the Frisian Philosopher Henricus de Veno," #1

 

Christoph Lüthy and Leen Spruit, “The Doctrine, Life, and Roman Trial of the Frisian Philosopher Henricus de Veno (1574?–1613),” Renaissance Quarterly 56 (2003): 1112–1151.

 ダヴィド・ゴルラエウス(David Gorlaeus, 1591–1612)は、初期近代の原子論者にして、神学を学ぶ学生であった(在学中に21歳で没している)。この人物の知的な背景を探ると、学部時代を過ごしたフラネケル大学の哲学教師であるヘンリクス・デ・ヴェノ(Henricus de Veno, 1112–1151)に行き当たる。

 1574年頃にレーワルデンで生まれたデ・ヴェノは、フラネケル大学でまずは学んだ(この大学は、1585年に設立されたばかりであった)。その後、ライデンで哲学の修士号を取得している。1596年にフラネケル大学に戻り、神学部の学生となる。しかし、そこで学位を取ることはなく、国外で学ぶことを選択した。1599年に再びフラネケルに戻ってきたときには、彼は法学、医学、そして哲学の学位を取得したと自称していた。

 なるほど確かに彼は国外で学んでいた。1598年にバーゼル大学の神学部に登録していたことが、大学の記録から分かる。しかし驚くべきことに、その記録によれば、ヴェ・ヴェノはバーゼルに来る以前にローマにおり、しかもそこで投獄されていたというのだ。

 実際、異端審問所の記録によると、デ・ヴェノは異端者であるとされ、異端誓絶を行っている。彼自身の証言によると、カルヴァン主義への信仰を失って、イタリアに来たのだという。この証言がどの程度信頼できるかはわからない。彼はカルヴァン主義者としてローマに来たのかもしれない。いずれにせよ、彼が最終的に審問の場で、カルヴァン主義の異端から離脱し、カトリックに加わると誓ったことは確かである。その後彼は一週間もしないうちに釈放された。異端審問所は、生まれながらのカトリックの異端には厳しかったものの、プロテスタント圏で生まれた者の異端の初犯には比較的寛大であった。なお、デ・ヴェノが投獄されていたときには、ジョルダーノ・ブルーノも同じ場所にいた。彼らのあいだでどのようなやり取りがあったかは(そもそもやり取りがあったかどうかも)分からない。