メイエルを批判するマレシウス Eberhardt, Christoph Wittich, "Die Auseinandersetzung mit Samuel Maresius" #2

 

 

  • Kai-Ole Eberhardt, Christoph Wittich (1625-1687): reformierte Theologie unter dem Einfluss von René Descartes (Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 2018), 266–268.

 マレシウスとウィティキウスの論争の前史を見たのち、著者はマレシウスがウィティキウスを批判するに至った直接の原因を探っていく。最初の原因は、やはり『聖書の解釈者としての哲学』の出版である。

 この書物の出版以前、マレシウスはデカルト主義に好意的であった。彼はヴォエティウスと対立しており、そのため敵の敵は味方ということで、ヴォエティウスに攻撃されていたデカルトとは良好な関係を築いていた。また、デカルトの死後も、デカルト主義者を表立って攻撃することはなかった。

 しかし、『聖書の解釈者としての哲学』の出版後、デカルト主義に対するマレシウスの態度は硬化しはじめる。メイエルの著作の出版の翌年(1667年)に彼が主催した討論の記録を見ると、確かにメイエルをデカルトと同一視すべきではないとしている。というのも、メイエルと異なりデカルトは理性と啓示を分けることを主張していたからである。また、懐疑主義に対してコギトの議論を使って対抗するところや、心身二元論に関しては、デカルト哲学を評価してもいる。しかし、動物を機械とみなす点や、魂の座が松果腺にあると考えること、そしてコペルニクスにならって地球が太陽の周りを回るという仮説を支持している点については、デカルトは誤っていると批判している。このような主張は、すでにウィティキウスがデカルト主義の神学のうちに取り込んでいたものであった。

 さらにマレシウスは、デカルトの方法を神学に適用することに強く反対する。そもそもデカルトはこのようなことはしていなかった。また、神学の領域では懐疑を展開すべきではない。そこでは理性ではなく、聖書が聖書自身を解釈する。こうしてマレシウスはデカルト本人には好意的な言及を続けながらも、デカルト主義の神学への警戒感を深めていく。彼の立場はヴォエティウスのそれに接近していったのだった。

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過激化するデカルト主義 Eberhardt, Christoph Wittich, "Die Auseinandersetzung mit Samuel Maresius" #1

 

  •  Kai-Ole Eberhardt, Christoph Wittich (1625-1687): reformierte Theologie unter dem Einfluss von René Descartes (Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 2018), 259–265.

 デカルト主義の神学者であるクリストフ・ウィティキウスについての基本書から、サミュエル・マレシウスとの論争を扱った部分を読み始める。ここで取り上げる部分に関しては、ジョナサン・イスラエルの研究によるところが大きいものの、有用なまとめとなっている。

 ウィティキウスは、1670年から師であるサミュエル・マレシウスとの論争を開始することになる。この論争は、マレシウスが70年に『デカルト哲学の濫用について』を出版してウィティキウスのデカルト主義神学を批判し、それにたいしてウィティキウスが直ちに自己を弁明する『平和の神学』を71年に出版したところからはじまった。

 この論争の前史には、デカルト主義に対する反対の強まりがあった。1660年代にはデカルト主義は抵抗にみまわれながらも、支持を拡大していた。しかし、60年代の終わり頃から保守派が勢いを回復する。理由の一つは政治的なもので、寛容を掲げる共和国の政策が見直されたことであった。

 もう一つの理由は、デカルト主義の過激化である。これが広く認められるようになったきっかけは、ロドウェイク・メイエルが匿名で『聖書の解釈者としての哲学』を1666年に出版したことであった。メイエルは聖書を解釈する基盤は聖書自体にあるという考えを批判し、聖書にある曖昧さを解消して、確かな解釈に至るためには理性(哲学)に依拠しなければならないと主張した。ここからメイエルは無からの創造の否定や、三位一体についての論争の無意味さの宣告といった帰結を引き出した。これはデカルトに代表される理性主義の帰結だとみなされた。

 『聖書の解釈者としての哲学』の出版をきっかけとして、従来はデカルト主義に好意的であった者たちも、対立する陣営に回ることになる。従来からデカルト主義を批判していたヴォエティウスやアンドレアス・エッセニウスは、自分たちの懸念がまさに現実化したとしいて、デカルト主義の神学への攻撃をさらに強めていった。

 コクツェーウス・デカルト主義の神学者の側では[デカルト主義とコクツェーウスの神学が正確にいってどういう理屈でセットにされていたのかは、私(坂本)にはまだくわからない]、『聖書の解釈者としての哲学』の著者と自分たちを区別する試みがなされるようになる。たとえば、ライデンのヘイダーヌスやコクツェーウスは『聖書の解釈者としての哲学』を断罪した。また、同書が67年にオランダ語訳された翌年には、ユトレヒトのヴォルツォーゲンによる批判が出版されることになる。ヴォルツォーゲンによると、聖書の解釈にあたって理性が決定打となるのは、以下の条件が満たされるときに限られる。第一に、哲学の側で結論が疑いの余地なく論証されている。第二に、問題となっている論点が、三位一体といったそもそも理性的な理解を受け付けない秘儀に該当していない。これらの条件を無視して、『聖書の解釈者としての哲学』は理性を聖書解釈の絶対的な基礎としているとして、ヴォルツォーゲンは批判したのだった。しかしこの立場もまた、理性に大きな役割を認めすぎており、ソッツィーニ主義に接近していると批判された。

 ヴォルツォーゲンに寄せられた批判にたいして、コクツェーウス・デカルト主義の神学者たちは弁護に回ることになる。コクツェーウス、ヘイダーヌス、ベッカー、ビュルマン、そしてウィティキウスらである。彼らは最終的に、1669年にヴォルツォーゲンが正統派から逸脱していない旨を宣言する文書に署名した。マレシウスもこの文書に署名している。しかし、『聖書の解釈者としての哲学』の出版以降、マレシウスはデカルト主義から距離をとり、その批判者になろうとしていた。この文書への署名が、かつての弟子であるウィティキウスと彼が連帯した最後の出来事となった。

予定と異端 木ノ脇「アルミニウスに対する異端宣告をめぐって」

 

  アルミニウスに関する基本的な情報を提供してくれる論文を読む。手際よくまとめられていて、私のような初学者には大変助かる。

 アルミニウスは、ウーデウォーターという、ユトレヒト近くの町に生まれた。彼の教育に携わっていたのは、なんと科学史でも有名なスネルである。設立されたばかりのライデン大学に入学したアルミニウスであったが、アムステルダム議会の決定によって、(帰国後にアムステルダムで牧師になるという条件の下で)ジュネーヴ大学で神学を学ぶことになる。ジュネーヴではベザのもとで学ぶとともに、バーゼルでも神学を修めた。

 帰国後アムステルダムで牧師をつとめるようになったアルミニウスにたいして、カルヴァン主義から逸脱した教えを説いているという指摘がなされるようになる。確かにアルミニウスは、カルヴァンを高く評価しながらも、その誤りを正す必要があると考えていた。このため、彼が1603年にライデン大学の神学教授に就任するにあたっては、ゴマルスらが強硬に反対したのだった。

 実際、教授就任にあたってアルミニウスが行った演説を検討すると、正統的な予定説とは相容れない考えを彼がもっていたことが分かる。アルミニウスによれば、救いのためには、恩寵と同時に人間の側の応答が不可欠である。これは、恩寵によって人間は抵抗する術もなく救われるという正統派の教えに反していた。

 アルミニウスの死後、オランダ国会はドルトレヒトで教会会議を開き、アルミニウスの教えを審議した。ゴマルスらが主導したこともあり、会議の末に決定された「ドルトレヒト教会会議規定」では、アルミニウスの教えは異端とされる。アルミニウスの教えを放棄しないものは破門された。

教養の導く先に、ダーウィンの番犬はいるのか 戸田山『教養の書』

 

教養の書 (単行本)

教養の書 (単行本)

  • 作者:戸田山 和久
  • 発売日: 2020/02/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 教養とはなにかを定義する第1部、そのような教養を身につけることを妨げるイドラにどう対処するかを解説する第2部、最後に教養を身につけるための実践的なアドバイスを提供する第3部からなっている。全体を通じて、多数の小説や映画が引かれ、現代の科学的な知見も随所で参照される。そういう箇所を読んでいると、引かれている小説や映画を見たくなってくる。それにより、教養とはなにかを語りながら、教養の習得へと読者を誘う書にもなっている。

 第3部の実践的アドバイスのなかでは、第21章「ライティングの秘訣」が特によいと感じた。仕事のなかでこそ文章を書かなければならないというライティングの必要性、相手と目的を意識して書かなければならないというライティングのデザイン性を説いたあとに、文章と文章をつなげるための具体的な手続きが書かれている。ライティングについて短くまとまったものとして、広く勧められる。

 さらに特筆すべき点として、科学史を学ぶ重要性が書かれていることがある。科学史を学ぶと、科学の発展は時間をかけて徐々に進むもので、しかもその発展は共同作業によってなされていることが分かる。こうして、一人の天才科学者が世にはびこる迷妄を打ち砕いたという英雄史観を回避できるという。

 これはまったくその通りだと思う。しかし、著者による科学史の記述の本体はかなり頼りないと感じた。たとえば、ハックスリーが「ダーウィンの番犬(ブルドック)」を自称していたとある(234ページ)。これは必ずしも間違いではない。しかし、この自称の資料的裏付けは、実はそれほど強固ではない。この点については、以下の記事に詳しい。

 この記事によると、まずハックスリー自身の書き物のなかで、自分のことをダーウィンの番犬と呼んでいる箇所はないという。ではこの自称はどこから来ているか。それは、ヘンリー・フェアフィールド・オズボーンの証言である。オズボーンは1895年の講義のなかで、1879年にハックスリーが「自分は常にダーウィンの番犬だった」と語ったと述べている。さらに1924年には、ハックスリーがしばしばダーウィンの番犬を自称していたと書き残している。

 オズボーンの証言は、彼の息子が編集し、1900年に出されたハックスリーの伝記に入り込んだ。そこでは、ハックスリーの言葉として「私はダーウィンの番犬である」(現在形になっている)が(資料的な典拠を示さずに)紹介されている。この伝記をもとに、ハックスリーは生前からダーウィンの番犬として知られていた、という決まり文句が形成されることになる。

 以上から少なくとも次のことが言える。まず、ハックスリーが生前からダーウィンの番犬と呼ばれていたということはない。それは、1895年のオズボーンの証言ではじめて現れる。しかも、その証言は1879年の会話の回想である。しかも、オズボーンの証言は、ハックスリーが1879年に一度だけ「自分はダーウィンの番犬だった」と言ったのか、それともしばしばそう言っていたのかについて、一定しない。このように、番犬発言は取り扱いに注意が必要である。そのような発言を、留保なく使うのは避けるべきだろう。もう少し一般化すると、このようなクリーシェを見たとき、これは本当に資料上の根拠があるのだろうか、と一度立ち止まれるようになることが、歴史学を学ぶ意義の一つではないかと思う。

 このような意味での歴史を学ぶ効用が本書で発揮されていないのは、当然なのかもしれない。本書の第16章「歴史的センスの磨き方」では、「史料の読み方とか」についてのアドバイスは、「歴史学科の学生さん向け」のものとしていったん脇に置かれている。そのかわりに著者が勧めているのが、グローバル・ヒストリーである。このような考え方は、歴史学者のうちでも支持がある。たとえば、川北稔「リアルなものを求めて:日本西洋史学の道」は、日本で求められる西洋史として、恐らくはウォーラーステインを念頭において、近代のグローバルな経済史を挙げているように見える(参照)。これにたいして、歴史学の核心は史料批判にあるというような、マルク・ブロックのような見解もある(参照)。このような問題についてしっかりと議論する準備には私にはない。けれど、教養としての歴史学は、グローバルヒストリーに限られるとは必ずしもいえない、までは言っておきたい。

 なお、番犬発言の紹介のあとに、種の「固定説が成り立つ前は、生物は種の垣根を超えて勝手にどんどん変わりうるという考え方(transmutationism)のほうが常識」であり、そこでは、「雑種も変態も進化も自然発生もごたまぜ。無秩序」(234ページ)と書かれている。これも、私には少なく見積もっても相当誤解を招く記述に思えた。たとえば、私が研究しているユリウス・カエサル・スカリゲルは、ここで例として挙げられている「ラクダとヒョウが掛け合わさってキリンになるとか、木の実が水に落ちるとフジツボに」なるとかいった事例を、「無秩序」であるとは考えていなかった。少なくとも後者のような例については、なんとか種の変化を認めずに説明しようと苦慮していた。その説明の仕方や、その歴史的な意義については、私の著作の第6章と、結論部を参照されたい。この箇所の記述、特に「無秩序」とまでいってしまうところは、論述を面白くしようとする著者のサービス精神が、悪い結果を招いている。

時計のような人体、時計のような政体 Neumann, "Machina Machinarum" #1

  • Hanns-Peter Neumann, "Machina Machinarum. Die Uhr als Begriff und Metapher zwischen 1450 und 1750," Early Science and Medicine 15 (2010): 122–191, here 121–133.

 初期近代における時計の比喩の使用を調べた論文を読みはじめる。時計の特徴として、自律的に、規則正しく動くというものがある。この特徴への言及はすでに15世紀後半に見られる(Tortelli, Poliziano, Polydorus Virgilius)。これらの文献で時計が machina と呼ばれていることから、machina の意味合いが変化していたことが見てとれる。machinaという言葉は、中世では静的な構造体(典型的には建築物)を指していた。それが、動的な構造体を指すものに変化している。また、時計の自律性(sua sponteに動くとされる)は、あたかも生きているようだと語られた。時計と魂をもつ生き物との類比がすでに現れていたことが分かる。また、時計の規則性は、天体の運行の大いなる規則性を模倣する能力を、機械工が備えているという意味にも解釈された。

 

 時計をめぐっては、それを人体と政体に結びつけることが行われた。正確に時を刻む時計は、定期的にメンテナンスされなければならないように、身体を健康に保つためには養生が必要である。また、しっかりと統治された都市は、必然的に街の時計も正確に時を刻むようにメンテナンスがなされているという考えもみられた。

占星術と人間中心主義 Ernst, "Atomes, providence, signes célestes"

  • Germana Ernst, "Atomes, providence, signes célestes: le dialogue épistolaire entre Campanella et Gassendi," in Gassendi et la modernité, ed. Sylvie Taussig (Turnhout: Brepols, 2008), 61–82.

 カンパネッラの専門家による、ガッサンディとカンパネッラのあいだの論争を扱った優れた論文を読む。主な史料として、ガッサンディとカンパネッラが1632年から33年のあいだに交わした書簡を用いている。

 カンパネッラによるガッサンディの批判は2点である。一つは、ガッサンディが支持するエピクロス哲学に対するものだ。カンパネッラによれば、エピクロス哲学はすべてが原子の偶然の衝突によって生じると考える点で間違っている。この世界は、そのように偶然に生じるものではない。よって理性を備えた第一の原因を想定する必要がある。これに答えてガッサンディは、この点ではエピクロスが誤っていたと認める。エピクロスは、星々を神とするストア派に対抗するために行き過ぎ、神による世界の支配自体を否定する過ちを犯してしまったという。

 カンパネッラのもう一つの批判は、ガッサンディによる占星術批判に対するものであった。ガッサンディは、幻日について、単なる自然現象であり、これを人間に関する出来事の予兆としてとらえるべきではないと考えていた。そのような考えは、すべてを自己中心的に解釈する人間の傾向の産物である。また、もし神が自然現象を介して、人間にメッセージを送るならば、神は必ずそれがメッセージであると人間に分かるようにするはずだという。

 これにたいしてカンパネッラは、ある現象を自然現象として説明できるからといって、そこから神がその現象に意味をこめなかったとは結論できないと反論する。この反論は、前述のエピクロス哲学批判と密接に関係している。批判のなかでカンパネッラは、意図をもって世界を支配する原因を認めなければならないとしていた。そうであるなら、この原因の意図を幻日のような自然現象に認めていけないわけがあろうか。これを認めないというのは、人間に直ちに明らかではないものの存在を認めない傲慢である。

 ガッサンディもカンパネッラも、人間の傲慢をいましめていた。しかし、そこから彼らは対照的な結論を引き出す。ガッサンディは、人間中心主義のゆえに占星術を否定した。カンパネッラは、占星術の否定こそがすべてを人間の尺度で測る過ちであると考えた。

ガッサンディ vs. フラッド Cafiero, "Fludd e la polemica con Gassendi"

  • Luca Cafiero, "Robert Fludd e la polemica con Gassendi," Rivista Critica di Storia della Filosofia 20 (1965): 3–15.

 ガッサンディによるフラッド批判を扱った論文を読む。対象としているのは、ガッサンディが1630年に出版したフラッド批判書である。著者によれば、ガッサンディ研究には大きな特徴がある。それはガッサンディの哲学を一つの体系として理解することである。これは扱う対象を『集成』に限定させる。同時に、『集成』に現れている考えに、一つの大きな特徴を与えることになる。代表的なものが1889年に出されたThomasの研究であり、それによるとガッサンディの体系というのは、エピクロスの哲学をキリスト教の枠組みに収めようとしたものとして理解できるという。逆にPintardの研究のように、ガッサンディの哲学から正統的でないと考えられる部分だけを選び出してきて注目するという研究も生まれた。

 このような観点からは、1630年代のフラッド批判書というのは、軽視されることになる。しかし、この本は注目する価値がある。というのも、そこには、いわば生成途上のガッサンディの哲学が現れているからである。ガッサンディはフラッドのように象徴だけに基づいて自然を理解するのは間違っていると考えていた。そうではなく感覚からデータを引き出し、それを量的に扱わなければならないと考えていた。そうやって得られた結論も、絶対の確実性は持たず、あくまで蓋然的な結論として理解される(なお、ガッサンディは、ケプラーも世界の調和についてあくまで仮説として述べたと断定している)。このような科学的な志向がすでに見られる一方で、フラッド批判書にはエピクロス哲学についての言及はほとんどない。ここから分かるのは、ガッサンディの哲学の発展にとっては、まず科学的な志向があり、そこにエピクロス哲学の導入が来たということである。これは、宗教的な枠組みのなかに、エピクロス主義を修正を施した上で導入したという、Rochotの見解とは相容れない。

 だとするとむしろ問題は、経験から仮説を引き出すにとどまろうとする経験主義・実験科学的な志向と、宇宙論まで含む壮大な体系としての原子論が、どうしてガッサンディのなかで両立し得たかということになるだろうと、著者は結んでいる。

 著者が考えるような、「神学的な枠組みがあってエピクロス主義がそこにくる」と「科学的な枠組みがあってエピクロス主義がそこにくる」といった区別が成り立つかどうかは疑問である。科学の成果と宗教の前提が両方とも保持されなければならないというのが、ガッサンディの出発点だろう。

 著者が末尾で述べているような、経験主義の枠内にとどまろうという考え方と、エピクロス主義の導入がもたらす包括的な体系の構築がどう両立するのかという問題は、まだガッサンディ研究のなかでうまく答えられていないように思える。ただ、ガッサンディは蓋然的な仮説という言葉を、現代の私たちが想定するよりもはるかに広い(ゆるい?)意味で使っているようには思える。だから、体系の構築も、経験主義の仮説のうちに一応入る。