哲学が1781年にはじまったとして、本当のところ何がはじまったのだろうか(はじまったことにされたのだろうか) フェルスター『哲学の25年』プロローグ

 何気なく読みはじめたら一気にプロローグまで読み終えてしまった。読ませる。巨大な推理小説のように、謎が謎を呼び、読者を引きずっていく感覚がある。

 18世紀の末にカントは言った。自分の『純粋理性批判』以前に哲学はなかったと。さらに、はじまったばかりの哲学は18世紀のうちに完成してしまうかもしれないと予言した。『純粋理性批判』の初版が出たのは1781年なので、この計算だと哲学ははじまってたった19年くらいで完成してしまうことになる。カントの死後まもなく、1806年にヘーゲルは言った*1。ここで哲学の歴史は完結したのだと。カントとヘーゲルの文言を悪魔合体させると、哲学というのは1781年にはじまって1806年に終わったことになる。哲学の歴史は25年で尽きてしまったというわけだ。

 もちろん、哲学ははるか昔からあったし、それ以降も続いている。そういうことをカントは否定したいわけではない。ヘーゲルもそうだろう。となると、まず問題になるのは、1781年に哲学がはじまったというとき、正確にいってどういう哲学がはじまったのかということである。なにが新しかったのか。

 この問いに対しては、カント自身が答えを与えてくれるように思える。カントは『純粋理性批判』の出版に先立つ1772年に述べていた。自分を含めてこれまでの形而上学に欠けていたものがある。それは、形而上学的な対象と、私たちのもつ表象(とりあえず心の中にもつイメージくらいの意味)がどう関係するのかというものである。これは感覚(感性)的な対象の場合は難しくはない。感覚的な対象は私たちを外部から刺激して、表象を生み出す。倫理的な対象でも難しくはない。それは私自身がもつ表象を通じて対象として存在するようになる(これからしようとするある行為について、これは善いとか悪いとか考えることで、善いとか悪いとかいった対象が現れるということだと思う)。しかし、問題が形而上学的な対象となると、その対象と私たちの関係は難しい。たとえば、魂についてである。それは私たちを外部から刺激するようなものではない。さりとて、私自身がつくり出すようなものでもない。この手の、外部にあるわけでもなく私たちが作りだしているわけでもないけれども、それについて学問的に何事かを語りえそうなものとして、形而上学的対象というものはある。この対象というのは、それについて私がもつ表象によって、正確にいってどのようにとらえられているのだろうか。このような問いを立てる哲学をカントは超越論的哲学と呼んだ。このような哲学はまだない。これをつくらないといけない。

 ということは、このように1772年に定式化されて超越論的哲学が、カントが18世紀末にいったこれまでなかった哲学をはじめさせたものなのだろうか。しかし、この答えはなにかがおかしい。というのも、1772年の時点でカントがないといっていたのは、形而上学的な対象についての超越論的な哲学に限られるからである。上記の記述からもわかるように、道徳哲学の存在は疑われていない。もしこの考えが引き続き保たれていたならば、18世紀末のカントの発言は、「『純粋理性批判』以前には、道徳哲学はあったけれども、いかなる形而上学(理論哲学)もなかった」とならなければならないはずである。しかしカントはおよそ哲学はなかったといっている。

 いったいなにがどうなっているのだろうか。実はカントは1781年に『純粋理性批判』を出した時点では、道徳哲学についても超越論的な哲学が必要だとは考えていなかった。しかしまもなく、超越論哲学は道徳も含むようになり、この結果『人倫の形而上学の基礎づけ』や『実践理性批判』が生まれることになる。このように超越論的哲学の範囲が拡張したことにより、カントは1781年以前にはおよそ哲学はなかったと言えたのである。

 こうして問題は複雑に定式化される。カントは18世紀末に、1781年の『純粋理性批判』以前には哲学はなかったと宣言した。しかし、このような考えは、1781年の時点のカントにはなかった。カントは81年以降に得た構想から振り返り、ある意味では歴史的な経緯を書き換えながら、81年以前には哲学はなかったと宣言しているのである。

 であるならば、81年に以前に哲学はなかったという発言の真の意味をとらえるためには、81年以降にカントの超越論的哲学の構想がどう拡張したのかが解明されなければならない。さらに、そうして拡張されたカントの構想が、どう1806年にいたるまで受け取られていったのかが明らかにされなければならない。そうすることではじめて、哲学の始まりと終わりの意味を明らかにできるだろう。

 こうして舞台は整った。ここから本論がはじまる。

*1:訳者解説によると、本当にこの年にいったかどうかを確証するのは困難らしい。

ユトレヒトのデカルト主義者たち Bordoli, Ragione e Scrittura

  • Roberto Bordoli, Ragione e Scrittura tra Descartes e Spinoza (Milan: FrancoAngeli, 1997), pp. 290–296.

 メイエルの『聖書の解釈者としての哲学』の研究書から、デカルト主義者ルードヴィッヒ・ヴォルツォーゲンを取り上げた節を読みはじめる。著者はヴォルツォーゲンによる『聖書の解釈者としての哲学』への反論を分析する前に、まず彼が活動していたユトレヒト大学でのデカルト主義者たちの活動について述べる。

 最初に資料として用いられるのは、サミュエル・マレシウスの『短論考』(Tractatus Brevis, 1672年)である。マレシウスによれば、クリストフ・ウィティキウスをはじめとするデカルト主義者は、『聖書の解釈者としての哲学』の出版により、息を吹きかえした。『聖書の解釈者としての哲学』の著者が目指しているのは、デカルトの哲学に沿って正統的な神学を歪めることで、ウォルスティウス主義者、アルミウス主義者、ソッツィーニ主義者を再生させることであったと、マレシウスはいう。

 マレシウスによれば、オランダの大学はみなデカルト主義という病に冒されている。ユトレヒト大学でも1667年以降、大変な論争が巻き起こっている。事の発端は、フランス・ビュルマンが1662年にユトレヒト大学に着任したことであった。彼は共和主義の政治家たちの後ろ盾を得ながら、精力的にデカルト主義とコクツェーウス主義を擁護した。結果としてユトレヒトは、「デカルト主義のアクロポリス、カピトリウム」になったという。

 ユトレヒトデカルト主義のメンバーは、 ランベルト・ファン・ヴェルトハウゼン、ビュルマン、ウィティキウス、レグネルス・ファン・マンスフェルトであった。またどういうわけかマレシウスは Jounal des Scavans がデカルト主義の伝播に一役買っていると述べている。ユトレヒトデカルト主義サークルは、スピノザの『神学政治論』が出版された1670年に解散したとマレシウスはいう。

 デカルト主義者たちを許すべきではないとマレシウスいう。意見の不一致はどのみちなくせないのだから、それは受け入れられるべきだという、『神学政治論』第20巻で表明されるような考えを彼は受け入れない。それは自由と放縦を取り違えているとマレシウスはいう。例えばルター派と改革派のような二つの集団のあいだで、互いに相手を許すということはありえるかもしれない。しかし、改革派という一つの集団の中で争いを残してしまってはならない。このことは、かつてアルミニウス主義をめぐって起きた論争から明らかだという。

 著者が二番目に用いる資料は、1674年に出版されたオランダ語のパンフレットである。それは、あるオランダ人とユトレヒトの神学生が対話するという体裁を取っている。この神学生によると、ユトレヒトはビュルマンらデカルト主義者たちが持ち込んだ新奇な教えに満たされて、デカルト主義に共鳴する市の政治家と教会とのあいだで衝突が起きている。ただし、このパンフレットが出た74年の時点では、デカルト主義者のサークルはユトレヒトから消滅しているという。

 ユトレヒトデカルト主義者たちは、市外ともつながっていた。ライデンにはアブラハム・ヘイダーヌスがおり、デーフェンターにはヤコブ・ペリゾニウスがおり、フラネカーにはバルタザール・ベッカーがおり、ナイメーヘンには(そして1671年以降にはライデンに)ウィティキウスがいる。デカルト主義者らは互いに結束し、もし誰かが攻撃されれば、その人物の正統性を擁護するために介入することにしていた。これはベッカーの本が1671年に出された際に実際に起きたことである。

 最後にパンフレットは、デカルト主義者と共和主義陣営のつながりに言及する。共和主義陣営は、デカルト主義者たちに、高い俸給を保証していたという。良いデカルト主義者とは、悪いオラニエ派のことであった。

マレシウスの自由判断論 Hampton, "Sin, Grace, and Free Choice" #1

 

  • Stephen Hampton, "Sin, Grace, and Free Choice in Post-Reformation Reformed Theology," in The Oxford Handbook of Early Modern Theology, 1600–1800, ed. Ulrich L. Lehner, Richard A. Muller and A. G. Roeber (Oxford: Oxford University Press, 2016), 228–241, here 228–231.

 改革派の罪、恩寵、自由判断の教義について、サミュエル・マレシウスの教えを中心に解説した論文を読む。非常に勉強になる。

 マレシウスは Theologiae Elenchticae Nova Synopsis のなかで、改革派は人間の自由判断(liberum arbitrium)を否定しているという批判に応答している。マレシウスによれば、改革派は人間の自由判断を肯定している。ただ、非決定の自由を否定しているだけである。非決定の自由とは、たとえどのような条件が整えられようとも(たとえば、神の恩寵が与えられたとしても)、人間には何かをすることを差し控えることができるということを意味する。

 なるほど、自由判断の能力を、それを取り囲む条件から切り離して考えるなら(in sensu diviso)、それは様々な選択肢のなかから行為を選ぶことができる。しかし、それを規定する条件とセットで考えるなら(in sensu composito)、それにはある行為を差し控える自由はない。もしそれができるなら、人間は神の摂理を無効化できることになってしまう。また、人間の行為というのは、知性のうちで「実践理性が下す最終的な判断」に従うものである。もしこの判断すら人間が覆せるなら、そもそも人間は理性的な存在ではなくなってしまう。

 ここからマレシウスは、自由判断というのは、単純に意志と同一視できないという。というのは、ある行為を選ぶということは、知性が下した判断に従うということであり、このとき意志はその判断に必然性をもって従うからである。よって、知性による判断こそが、意志の能力をなにかを意志することへと決定する。またここから自由判断が、強制と両立しないことが分かる。というのも、強制されるとは、知性による判断とは異なることを強いられるということだからである。

 とはいえ、自由判断はある種の必然性とは両立する。まず、神への依存という必然性と両立する。また道徳的な必然性とも両立する。イエスの道徳的な性質は、彼が罪を犯すことを許さない。それでも、彼の良き行動は自由に選ばれたものである(彼の知性による判断に従ってなされたものである)。堕落した人間の行動は常に罪深い。それでも、その者たちの行動は自由である(その者たちの知性による判断に従ったものである)。

 また、自由判断は神の決定からくる必然性とも両立する。なるほど人間の行為は、一度神の決定が下されたならば必然的である。しかし、それはあくまでそのような神の決定が下されたならば、という条件のもとでの必然性である。絶対的な必然性ではない。別の決定が下されていたならば、別の判断がなされていただろう。

 マレシウスの考えでは、意志というのは実践理性の最終的な判断によって決定される。しかし、この見解は改革派のあいだであまねく受け入れられていたわけではない。ペトルス・ファン・マストリヒトは、Theoretico-Practica theologia のなかで、マレシウスに反論している。もしマレシウスが正しいなら、人間を回心させるために恩寵は知性だけを照らし出せばいいことになる。しかしこれは聖書の教えに反する。よって意志が知性の判断に従うのは、その判断が意志のあり方に合致している場合だけだとマストヒリとは考える。このため回心のためには、意志のあり方も恩寵が変えなければならない。

つくり手とファンの交渉から生まれるなにか ジェンキンズ『コンヴァージェンス・カルチャー』

 

  • ヘンリー・ジェンキンズ『コンヴァージェンス・カルチャー ファンとメディアがつくる参加型文化』渡部宏樹、北村紗衣、阿部康人訳、晶文社、2021年、21– 59ページ。 

 編集者の方と訳者のさえぼうに送ってもらったので、早速イントロダクションを読んだ。私の予備知識量では話が追いにくいところもあり、理解できたか心もとない。ただ読みっぱなしにすると分かりそうな点もあやふやな理解にとどまり、そのまま忘却の彼方に消えてしまうので、私がポイントだと考えた点を、以下にノートとして残しておく。

 一昔前(大昔かもしれない…)、メディアミックスという言葉がよく使われた。一つのコンテンツが数多くのメディアを通じて発信される事態を指していたように思う。それに近いものとして、本書の「コンバージェンス」という用語をおさえると、まずは分かりやすそうだ。

 ただ、どうも二つの言葉のニュアンスには違いがあるようにも思える。私の印象では、メディアミックスというときには、主導するのはコンテンツのつくり手側だという響きがあった。つくり手が多様なメディアを結びつける。そうして展開されるメディアミックスをオーディエンスが受け止める。このような能動と受動の役割分担が前提となっていた。

 それに対して本書ではコンバージェンスという言葉で、オーディエンスの能動性を強調している。よく考えてみるならば、メディアミックスが成り立つためには、オーディエンスが数多くのメディアを渡り歩いて、コンテンツを消費することが期待できなければならない。さらに本書が重視するのが、オーディエンスが各自バラバラに分散しているのではなく、共同体(ファンダムと呼ばれる)をつくってコンテンツについての発信を行う点だ。その発信がコンテンツの展開を動かしもするという。

 このようにオーディエンスの参加を強調するとなると、次のような結論を期待するかもしれない。伝統的な一対多のメディアのあり方は終わりを迎えている。これからは一人ひとりがつくり手となる時代だ、と。しかし著者はそう考えていないようだ。確かにつくり手と受けて手の区別はゆらぐ。しかしなくなるわけではない。コンテンツをまずつくり発信する側と、それを受け取る側という大まかな区別は残る。変わってきているのは、(多分)多くのチャンネルを通じて受け手が反応し、それが従来よりも強く、すばやくつくりて手の活動に反映されるようになったことや、通信技術の発達によりオーディエンス共同体の形成なり分化なりの速度が加速していることだろう。それにより、つくり手とオーディエンスの関係は目に見える形で複雑化する。両者は時に協働するものの、時には激しく対立する。両陣営の一筋縄ではいかない交渉の有様を「コンバージェンス・カルチャー」としてとらえて、いくつかの事例を分析するのが本書の主な内容となっている。私でも名前くらいは知っている『スター・ウォーズ』や『マトリックス』も取り上げられる。

 本書の対象はアメリカの事例に限定されるもの、同じようなコンバージェンス・カルチャーは日本にもありそうだ。「公式」や「運営」に対する称賛や怨嗟の声にインターネット(の一部)は溢れかえっていないだろうか。あの激しさはなんなのか。それを考えるヒントを本書は与えてくれるだろう。

 最後に読み方について。イントロダクションはやはりかなり難しいので、帯にも書いてあるコンバージェンスの定義と、このブログ記事の内容(間違っていたらすいません)程度を頭にいれたら、いきなり本編の事例研究から読みはじめるのがよいと思う。そこは肩の力を抜いて楽しめそうなので。私も楽しもうと思います。

ウィティキウスから『神学政治論』へ Eberhardt, Christoph Wittich, "Die Auseinandersetzung mit Samuel Maresius" #5

 

 

  • Kai-Ole Eberhardt, Christoph Wittich (1625-1687): reformierte Theologie unter dem Einfluss von René Descartes (Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 2018), 274–280.

 これまで、マレシウスとウィティキウスの論争の原因として、(1)『聖書の解釈者としての哲学』の出版、(2)コクツェーウス・デカルト主義者との論争、(3)ヴォエティウスとの和解を見てきた。しかし、さらに直接的な原因がある。それは、ウィティキウスがナイメーヘン大学での講義でマレシウスの『神学講義、あるいは神学全体の短い体系 Collegium theologicum: Sive breve systema universae theologiae』(初版1645年)を教科書として用いながら、講義内で同書をデカルト主義神学の立場から批判したことであった。ウィティキウスの講義内容は『体系』に対する『注記』(Annotationes)として筆記され、これがナイメーヘン大学だけでなく、マレシウスのいるグローニンゲン大学にも持ち込まれることになる(持ち込まれていることにマレシウスが気がついたのは1669年のことであったものの、実際には遅くとも1667年にはグローニンゲンでも使われていた)。

 かつての弟子からの批判に憤ったマレシウスは、1670年に『デカルト哲学の濫用についてDe abusu philosophiae cartesianae』を出版する。批判の対象としてウィティキウスを名指しはしていないものの、だれが攻撃されているかは明らかであった。同書の序論でマレシウスは、自分は二つの危険なグループからネーデルラントの改革派教会を守るのだと述べている。その二つのグループとはコクツェーウス主義者たちと、デカルト主義者たちであった。とりわけ後者は、キリスト教徒であるよりもむしろデカルト主義者とみなされることを望むことによって、『聖書の解釈者としての哲学』のような危険な書物を生み出したとされる。

 マレシウスによると、デカルト主義が単に哲学上の立場として支持を拡大しようとしているあいだは、それに取り立てて反対する理由はなかった。しかしデカルト主義者たちが、デカルトの方法を神学に適用するようになり、実際に神学部でもデカルト主義の神学が力をもつようになったために、批判する必要が生じたという。そのような状況のなか、「ある極めて高名な人物」(ウィティキウスのこと)が、自分の『体系』に対する『注記』を著して、自分を若い学生たちの面前で侮辱するということをおこなったのだった。ここから分かるように、マレシウスの批判には正統派を守るといういわば公的な側面と、個人的に受けた攻撃に対して反論するといういわば私的な側面があったといえる。

 『濫用』での批判に対してウィティキウスは『平和の神学』の出版をもって応えた。それに対してさらにマレシウスが反論する。71年の『神学上の論争の主要点についての小目録 Indiculus praecipuarum controversiarum theologicarum』と、73年の『体系』の増補版である(この増補版[Systema theologicum cum annotationibus]では、ウィティキウスが『体系』に対して行った『注記』に対抗する形で、マレシウス自身が自著に注記を施すということを行っている)。増補版での序文では、コクツェーウス主義者たちとデカルト主義者たちが行っていることは、もはや新たな宗教改革であり、結果的に正統派の信仰を破壊してしまうだろうと述べている。また『小目録』では、ウィティキウスの『二つの論文 Dissertationes duae』(1653年;デカルトの渦仮説と聖書の記述は矛盾しないなどの主張を含む)が、デカルトからくる理性主義の過激化を準備し、『聖書の解釈者としての哲学』とスピノザの『神学政治論』を生み出したとしている。

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マレシウスとヴォエティウスの和解 Eberhardt, Christoph Wittich, "Die Auseinandersetzung mit Samuel Maresius" #4

 

 

  • Kai-Ole Eberhardt, Christoph Wittich (1625-1687): reformierte Theologie unter dem Einfluss von René Descartes (Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 2018), 271–273.

 マレシウスがデカルト批判に乗りだした理由の最後のものは、ヴォエティウスとの和解であった。二人は激しく対立していたものの、すでに論争は継続されておらず、またヴォエティウスの影響力も低下しはじめていた。このようななか、『聖書の解釈者としての哲学』が出版され、またアルティングとの論争の中でデカルト・コクツェーウス主義の危険性への認識を深めていたマレシウスは、正統的な神学を防衛するためには、見解の相違には目をつぶってヴォエティウスと和解するのが得策と考えるようになる。こうして両者は1669年に和解したのだった。

 しかしだとすると、69年の春にマレシウスが、デカルト主義者であるヴォルツォーゲンを擁護する文書に署名していることは驚きである。これはおそらく、マレシウスがデカルト主義の神学への適用には強い反発を覚えていても、デカルト本人への敬意を失っていなかったことを要因としている。このため、デカルトに依拠して『聖書の解釈者としての哲学』を論駁しようとしたヴォルツォーゲンの試みを、マレシウスは一定程度評価することになったのだと思われる。とにもかくにも、マレシウスの標的は、デカルト主義の哲学を改革派の神学の内部で濫用しようとする者となる。それがウィティキウスであった。

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マレシウスとコクツェーウス Eberhardt, Christoph Wittich, "Die Auseinandersetzung mit Samuel Maresius" #3

 

 

  • Kai-Ole Eberhardt, Christoph Wittich (1625-1687): reformierte Theologie unter dem Einfluss von René Descartes (Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 2018), 268–271.

 マレシウスがデカルト主義に敵対的となった第二の理由は、ヨハンネス・コクツェーウスとの関係の悪化があった。コクツェーウスの神学は、当時デカルト主義と親しいととらえられていた。二人の関係は当初は良好なものだった。互いに著作を送りあっていたし、書簡も交わしていた。マレシウスは著作のなかでコクツェーウスに言及もしていた(ただし、その学説を詳細に検討しているわけではない)。コクツェーウスが1650年にライデン大学の教授に任命されたことで、そのポストに就きたかったマレシウス都の関係は冷え込んだものの決裂したわけではなかった。

 しかし、1663年に二人のあいだで論争が起こる。コクツェーウスの学生が行った討論にたいしてマレシウスが攻撃したのである。これにコクツェーウスが反論を送ることになる。その反論書をマレシウスは大学の講義で検証し、65年にはコクツェーウスにたいしてソッツィーニ派に接近しているのではないかと警告を与えた。決裂が決定的なものとなったのは、マレシウスが1668年にグローニンゲン大学の同僚であるヤコブス・アルティングと衝突して以後のことだった。アルティングはトビアスアンドレアエの学生であり、コクツェーウス・デカルト主義者であった。アルティングはコクツェーウスを引きながら、千年王国的な見解を擁護し、マレシウスはそれを批判した。論争は最終的に、ライデン大学の神学部に助言を求めることで、収められた。意見を求められたライデンのコクツェーウスとヘイダーヌスは、アルティング寄りの裁定を下し、マレシウスには自重が求められた。これに憤慨したマレシウスは、コクツェーウスへの批判を再開することになる。その際には、アルティングがまさにそうであったように、コクツェーウスの神学はデカルト主義とセットとみなされたのだった。

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