タウレルスの神学的原子論 Lüthy, David Gorlæus, 3.11

  • Christoph Lüthy, David Gorlæus (1591–1612): An Enigmatic Figure in the History of Philosophy and Science (Amsterdam: Amsterdam Amsterdam University Press, 2012), 122–129.

 

 

 ゴルラエウスの原子論の出所を、ドイツの哲学者ニコラウス・タウレルスに探った箇所を読む。タウレルスはチュービンゲンでヤーコプ・シェキウスのもとで哲学を学び、その後神学に向かったが、最終的に医学の学位をバーゼル大学で取得した。1580年にアルトドルフ大学に着任し、そこで自然哲学を教えて生涯を終える。彼は自分をキリスト教哲学者と自称し、プロテンタント神学の土台を提供するような哲学を構築しようとしていた。そのために彼は存在論に向かう。存在について、とりわけ神の存在について、形而上学的な定義を与えることによってはじめて、神学上の難問を解消することができると考えたからである。

 彼によれば、存在(ens)と存在する(existere)とは同じことである。そして存在するものというのは、単一のものとして存在していなければならない。そうすると、存在するものが多数集まってできたものは、決してそれ自体として単一のものにはならない。それは、むしろ変化しない単一な存在たちが集まってできたものとなる。

 この主張は、神に適用される。神は存在の中の存在なのだから、存在がもつあらゆる性質をもたねばならない。そうすると、神は延長という量を持たなければならない。こうすることで、神の遍在、予知、その意志の変化の可能性といった難問を解決することができるという。たとえば、神を限定された量と理解することで、神の本質を一つの場所に限定することができ、それにより地上の出来事、たとえば聖餐や人間の行為から切り離すことができる(後者により自由意志を確保できる)。

 タウレルス本人を原子論者とみなすことができるかというと、一定の留保をつけながら肯定することができる。なるほど彼は原子の存在をどこでも証明はしていない。それを証明すると予告した著作は書き上げられなかったか、失われてしまったかして、出版されなかった。ただ、すべての存在は単一性をもつ素材であり、すべての複合体はこの単一な存在がつくる集合体であり、しかもこの存在に無限分割可能性を認めることはできないとし、さらにはその存在を原子と呼ぶことがあることを考えれば、彼が原子者であると結論してよいだろう。ただタウレルスは古代の原子論者は批判していた。彼の原子論は古代の原子論の復興ではなく、プロテスタント神学の要請に答えるためのものであった。

 ゴルラエウスはどうやってタウレルスの著作を知ったのか。彼がフラネカーで受けていた、デ・ヴェノの講義のなかではタウレルスがしばしば言及されていた。タウレルスはすでにハイデルベルク神学者たちにより、ウォルスティウスの着想の源泉だと指摘されていた。そしてフラネカーには、ウォルスティウスの弟子が多く存在していた。こういうことから、ゴルラエウスはウォルスティウスの背後にいると考えられたタウレルスの著作に手を伸ばしたのではないだろうか。その結果として、タウレルスから神学と哲学の全体を存在論から引き出すという着想を学び、またその存在論を原子論とすることを学んだのではないだろうか。

デカルト哲学と知性単一論 Verbeek, "'Ens per accidens'"

  • Theo Verbeek, "'Ens per accidens': le origini della querelle di Utrecht," Giornale Critico della Filosoa Italiana 12 (1992): 276–288.

 レギウスは、1641年の討論で、「精神と身体から単一の自体的な存在(ens per se)が生じるのではない。そうではなく、偶有性からなる単一の存在(ens per accidens)が生じる。なぜなら精神と身体は、それぞれで完全で完璧な実体だからである」と述べていた。これをヴォエティウスがどう解釈したかを検討した論文である。著者はヴォエティウスがレギウスの主張を、アヴェロエスの知性単一説と関連付けて理解していたと指摘する。アヴェロエスによれば、知性というのは一つである。知性は個別の人間ごとにあるのではない。だから、人間を個別化する働きを知性は果たしていない。質料形相論の術語でいえば、知性は forma informans ではなく、forma assistens だということになる。それは船における船乗りのようなものである。船と船乗りは一つの存在ではない。それらが一つであるのは、航行するという活動においてである。このような理解と、精神と身体がつくる単一性を、偶有的なものとするレギウスの主張がヴォエティウスによって重ねられる。そこから、レギウス・デカルト的な理解を、プラトン主義の世界霊魂論と関係させることも行われる。なぜなら、世界霊魂論とは、一つの霊魂が多数の事物に関わるという点で、単一の知性が多数の人間と関わるとする知性単一論と重なるからである。このような古くからの危険な学説と結びつくと考えたからこそ、ヴォエティウスはレギウスの見解に激しく反発したのだった。

ゴルラエウスのオランダでの受容 Lüthy, David Gorlæus, 4.2

  •  Christoph Lüthy, David Gorlæus (1591–1612): An Enigmatic Figure in the History of Philosophy and Science (Amsterdam: Amsterdam Amsterdam University Press, 2012), 134–139.

 

 

 ゴルラエウスの『演習』を所蔵しているオランダの図書館は、現在は2つしかない。しかし『演習』は当時は広く読まれていた。Adriaan Hereboordのような人物も、1648年の時点で、ゴルラエウスの形而上学を哲学の学び方に関する助言のなかで推薦している。ここでは、デカルトと関係があった3名の人物が、どうゴルラエウスを読んでいたかが検証されている。

 Jacob Ravenspergerは、1639年にグローニンゲンで行った討論で、ゴルラエウスが繰り返し言及している。Ravenspergerはときにゴルラエウスに同意し、特に異議を唱えている。Ravernspergerは、ゴルラエウスが元素の数を2つに絞ったことだけでなく、『演習』のほぼ全体を検討している。ただしゴルラエウスの原子論には関心を寄せていない。

 ヘンリクス・レネリは、デカルトの良き友人であった。しかしレネリが作成した討論を見ると、彼もまたゴルラエウスに依拠しているのが分かる。ゴルラエウスと同じく、伝統的な元素と混合の区別を否定しているし、火と空気を元素から除外している。

 ヘンリクス・レギウスは、1641年にユトレヒト大学で行った討論で、現在ユトレヒト事件として知られる論争を引き起こしたことで知られている。この討論はデカルトに大きく依拠しており、そのため最終的にデカルト哲学がユトレヒト大学で禁止されることになる。討論のなかでRegiusは、人間を「偶有性からなる存在」と定義した。「精神と身体から単一の自体的な存在(ens per se)が生じるのではない。そうではなく、偶有性からなる存在(ens per accidens)が生じる。なぜなら精神と身体は、それぞれで完全で完璧な実体だからである」。この見解を神学部の教授であるギスベルトゥス・ヴォエティウスは危険視した。それは、たとえば身体の復活の否定につながるからである。

 デカルト本人は、人間を偶有的な存在とする見解はレギウスが書いたものではないと弁明したものの、レギウスは書いたのは自分であり、それをゴルラエウスから学んだのだと宣言する。これを受けてヴォエティウスは討論を主催し、そのなかでゴルラエウスは人間を偶有性からなる存在とする主張を、タウレルスから学んだと解釈し、この主張を攻撃した*1。さらにヴォエティウスは、実体形相の学説を否定しようとする危険人物として、タウレルス、ゴルラエウス、バッソンの名前を挙げている。こうしてヴォエティウスのなかで、タウレルス、ゴルラエウス、バッソンと同種の理論を唱えるものとして、レギウスとデカルトは位置づけられた。同じように、スホーキウスも、デカルトがやろうとしているのは、アリストテレスを排斥しようとしたバッソン、タウレルス、ゴルラエウスの営みと同種のものだと攻撃している。

関連書籍

 

 

*1:このヴォエティウスの解釈に、デカルトも言及している。デカルトユトレヒト紛争書簡集』27ページ(AT7:586)。

ゴルラエウスのパリでの受容 Lüthy, David Gorlæus, 4.1

  • Christoph Lüthy, David Gorlæus (1591–1612): An Enigmatic Figure in the History of Philosophy and Science (Amsterdam: Amsterdam Amsterdam University Press, 2012), 134–139.

 

 

 

 謎に包まれた原子論者ゴルラエウスの著作の受容についての記述を読む。まずはパリでの受容である。

 ゴルラエウスの著作のうち、『自然学のイデア』(1651年)は、出版された時期も遅く、ほぼ関心を引かなかった。しかし『演習』(1620年)は1620年から50年にかけてオランダの内外でかなり広く読まれることになる。

 フランスではまずマラン・メルセンヌが繰り返しゴルラエウスを、novatoresの一人として攻撃している。彼によれば、ゴルラエウスは「すべての事物は無から来ている」、「物体のうちには、大きさと形をもつアトム」があると論じていた。ガブリエル・ノーデは、彼の図書館構想のなかで、ゴルラエウスの著作をその他のnovatoresのものとともに配架することを提案している。メルセンヌとノーデの記述からは、ゴルラエウスが1620年代にはパリで読まれていたことが分かる。彼の著作をパリにもたらしたのは、フーゴー・グロティウスかもしれない。

 さらに1651年には、Jean Bachoutがゴルラエウスをタウレッルスとともにnovatoresの一人として挙げて称賛している。この二人がセットになっていることから、彼が1641年のユトレヒト事件を知っていたと考えられる(この事件のなかで、ゴルラエウスとタウレッルスはセットにされていた)。

 Charles Sorelも、 Science universelle(1634, 1637, 1641, 1644)のなかで、ゴルラエウスに元素の数を2つに減らした人物として言及している。さらに火は偶有性であるというゴルラエウスの見解に異を唱えている。Sorelのゴルラエウスへの依拠は、1634年の Science des choses corporelles のなかにも認められると推測される。そこで示されている元素の理論は非常にゴルラエウスのものに近く、Sorelが執筆にあたって彼の『演習』を手元に置いていたのは間違いない。しかし、Sorelにとってゴルラエウスの重要性は、デカルトの著作が出版されることで減少した。その後は、ゴルラエウスはデカルトの更に大胆な自然哲学の先触れといった役割しか与えられないようになった。

哲学が1781年にはじまったとして、本当のところ何がはじまったのだろうか(はじまったことにされたのだろうか) フェルスター『哲学の25年』プロローグ

 何気なく読みはじめたら一気にプロローグまで読み終えてしまった。読ませる。巨大な推理小説のように、謎が謎を呼び、読者を引きずっていく感覚がある。

 18世紀の末にカントは言った。自分の『純粋理性批判』以前に哲学はなかったと。さらに、はじまったばかりの哲学は18世紀のうちに完成してしまうかもしれないと予言した。『純粋理性批判』の初版が出たのは1781年なので、この計算だと哲学ははじまってたった19年くらいで完成してしまうことになる。カントの死後まもなく、1806年にヘーゲルは言った*1。ここで哲学の歴史は完結したのだと。カントとヘーゲルの文言を悪魔合体させると、哲学というのは1781年にはじまって1806年に終わったことになる。哲学の歴史は25年で尽きてしまったというわけだ。

 もちろん、哲学ははるか昔からあったし、それ以降も続いている。そういうことをカントは否定したいわけではない。ヘーゲルもそうだろう。となると、まず問題になるのは、1781年に哲学がはじまったというとき、正確にいってどういう哲学がはじまったのかということである。なにが新しかったのか。

 この問いに対しては、カント自身が答えを与えてくれるように思える。カントは『純粋理性批判』の出版に先立つ1772年に述べていた。自分を含めてこれまでの形而上学に欠けていたものがある。それは、形而上学的な対象と、私たちのもつ表象(とりあえず心の中にもつイメージくらいの意味)がどう関係するのかというものである。これは感覚(感性)的な対象の場合は難しくはない。感覚的な対象は私たちを外部から刺激して、表象を生み出す。倫理的な対象でも難しくはない。それは私自身がもつ表象を通じて対象として存在するようになる(これからしようとするある行為について、これは善いとか悪いとか考えることで、善いとか悪いとかいった対象が現れるということだと思う)。しかし、問題が形而上学的な対象となると、その対象と私たちの関係は難しい。たとえば、魂についてである。それは私たちを外部から刺激するようなものではない。さりとて、私自身がつくり出すようなものでもない。この手の、外部にあるわけでもなく私たちが作りだしているわけでもないけれども、それについて学問的に何事かを語りえそうなものとして、形而上学的対象というものはある。この対象というのは、それについて私がもつ表象によって、正確にいってどのようにとらえられているのだろうか。このような問いを立てる哲学をカントは超越論的哲学と呼んだ。このような哲学はまだない。これをつくらないといけない。

 ということは、このように1772年に定式化されて超越論的哲学が、カントが18世紀末にいったこれまでなかった哲学をはじめさせたものなのだろうか。しかし、この答えはなにかがおかしい。というのも、1772年の時点でカントがないといっていたのは、形而上学的な対象についての超越論的な哲学に限られるからである。上記の記述からもわかるように、道徳哲学の存在は疑われていない。もしこの考えが引き続き保たれていたならば、18世紀末のカントの発言は、「『純粋理性批判』以前には、道徳哲学はあったけれども、いかなる形而上学(理論哲学)もなかった」とならなければならないはずである。しかしカントはおよそ哲学はなかったといっている。

 いったいなにがどうなっているのだろうか。実はカントは1781年に『純粋理性批判』を出した時点では、道徳哲学についても超越論的な哲学が必要だとは考えていなかった。しかしまもなく、超越論哲学は道徳も含むようになり、この結果『人倫の形而上学の基礎づけ』や『実践理性批判』が生まれることになる。このように超越論的哲学の範囲が拡張したことにより、カントは1781年以前にはおよそ哲学はなかったと言えたのである。

 こうして問題は複雑に定式化される。カントは18世紀末に、1781年の『純粋理性批判』以前には哲学はなかったと宣言した。しかし、このような考えは、1781年の時点のカントにはなかった。カントは81年以降に得た構想から振り返り、ある意味では歴史的な経緯を書き換えながら、81年以前には哲学はなかったと宣言しているのである。

 であるならば、81年に以前に哲学はなかったという発言の真の意味をとらえるためには、81年以降にカントの超越論的哲学の構想がどう拡張したのかが解明されなければならない。さらに、そうして拡張されたカントの構想が、どう1806年にいたるまで受け取られていったのかが明らかにされなければならない。そうすることではじめて、哲学の始まりと終わりの意味を明らかにできるだろう。

 こうして舞台は整った。ここから本論がはじまる。

*1:訳者解説によると、本当にこの年にいったかどうかを確証するのは困難らしい。

ユトレヒトのデカルト主義者たち Bordoli, Ragione e Scrittura

  • Roberto Bordoli, Ragione e Scrittura tra Descartes e Spinoza (Milan: FrancoAngeli, 1997), pp. 290–296.

 メイエルの『聖書の解釈者としての哲学』の研究書から、デカルト主義者ルードヴィッヒ・ヴォルツォーゲンを取り上げた節を読みはじめる。著者はヴォルツォーゲンによる『聖書の解釈者としての哲学』への反論を分析する前に、まず彼が活動していたユトレヒト大学でのデカルト主義者たちの活動について述べる。

 最初に資料として用いられるのは、サミュエル・マレシウスの『短論考』(Tractatus Brevis, 1672年)である。マレシウスによれば、クリストフ・ウィティキウスをはじめとするデカルト主義者は、『聖書の解釈者としての哲学』の出版により、息を吹きかえした。『聖書の解釈者としての哲学』の著者が目指しているのは、デカルトの哲学に沿って正統的な神学を歪めることで、ウォルスティウス主義者、アルミウス主義者、ソッツィーニ主義者を再生させることであったと、マレシウスはいう。

 マレシウスによれば、オランダの大学はみなデカルト主義という病に冒されている。ユトレヒト大学でも1667年以降、大変な論争が巻き起こっている。事の発端は、フランス・ビュルマンが1662年にユトレヒト大学に着任したことであった。彼は共和主義の政治家たちの後ろ盾を得ながら、精力的にデカルト主義とコクツェーウス主義を擁護した。結果としてユトレヒトは、「デカルト主義のアクロポリス、カピトリウム」になったという。

 ユトレヒトデカルト主義のメンバーは、 ランベルト・ファン・ヴェルトハウゼン、ビュルマン、ウィティキウス、レグネルス・ファン・マンスフェルトであった。またどういうわけかマレシウスは Jounal des Scavans がデカルト主義の伝播に一役買っていると述べている。ユトレヒトデカルト主義サークルは、スピノザの『神学政治論』が出版された1670年に解散したとマレシウスはいう。

 デカルト主義者たちを許すべきではないとマレシウスいう。意見の不一致はどのみちなくせないのだから、それは受け入れられるべきだという、『神学政治論』第20巻で表明されるような考えを彼は受け入れない。それは自由と放縦を取り違えているとマレシウスはいう。例えばルター派と改革派のような二つの集団のあいだで、互いに相手を許すということはありえるかもしれない。しかし、改革派という一つの集団の中で争いを残してしまってはならない。このことは、かつてアルミニウス主義をめぐって起きた論争から明らかだという。

 著者が二番目に用いる資料は、1674年に出版されたオランダ語のパンフレットである。それは、あるオランダ人とユトレヒトの神学生が対話するという体裁を取っている。この神学生によると、ユトレヒトはビュルマンらデカルト主義者たちが持ち込んだ新奇な教えに満たされて、デカルト主義に共鳴する市の政治家と教会とのあいだで衝突が起きている。ただし、このパンフレットが出た74年の時点では、デカルト主義者のサークルはユトレヒトから消滅しているという。

 ユトレヒトデカルト主義者たちは、市外ともつながっていた。ライデンにはアブラハム・ヘイダーヌスがおり、デーフェンターにはヤコブ・ペリゾニウスがおり、フラネカーにはバルタザール・ベッカーがおり、ナイメーヘンには(そして1671年以降にはライデンに)ウィティキウスがいる。デカルト主義者らは互いに結束し、もし誰かが攻撃されれば、その人物の正統性を擁護するために介入することにしていた。これはベッカーの本が1671年に出された際に実際に起きたことである。

 最後にパンフレットは、デカルト主義者と共和主義陣営のつながりに言及する。共和主義陣営は、デカルト主義者たちに、高い俸給を保証していたという。良いデカルト主義者とは、悪いオラニエ派のことであった。

マレシウスの自由判断論 Hampton, "Sin, Grace, and Free Choice" #1

 

  • Stephen Hampton, "Sin, Grace, and Free Choice in Post-Reformation Reformed Theology," in The Oxford Handbook of Early Modern Theology, 1600–1800, ed. Ulrich L. Lehner, Richard A. Muller and A. G. Roeber (Oxford: Oxford University Press, 2016), 228–241, here 228–231.

 改革派の罪、恩寵、自由判断の教義について、サミュエル・マレシウスの教えを中心に解説した論文を読む。非常に勉強になる。

 マレシウスは Theologiae Elenchticae Nova Synopsis のなかで、改革派は人間の自由判断(liberum arbitrium)を否定しているという批判に応答している。マレシウスによれば、改革派は人間の自由判断を肯定している。ただ、非決定の自由を否定しているだけである。非決定の自由とは、たとえどのような条件が整えられようとも(たとえば、神の恩寵が与えられたとしても)、人間には何かをすることを差し控えることができるということを意味する。

 なるほど、自由判断の能力を、それを取り囲む条件から切り離して考えるなら(in sensu diviso)、それは様々な選択肢のなかから行為を選ぶことができる。しかし、それを規定する条件とセットで考えるなら(in sensu composito)、それにはある行為を差し控える自由はない。もしそれができるなら、人間は神の摂理を無効化できることになってしまう。また、人間の行為というのは、知性のうちで「実践理性が下す最終的な判断」に従うものである。もしこの判断すら人間が覆せるなら、そもそも人間は理性的な存在ではなくなってしまう。

 ここからマレシウスは、自由判断というのは、単純に意志と同一視できないという。というのは、ある行為を選ぶということは、知性が下した判断に従うということであり、このとき意志はその判断に必然性をもって従うからである。よって、知性による判断こそが、意志の能力をなにかを意志することへと決定する。またここから自由判断が、強制と両立しないことが分かる。というのも、強制されるとは、知性による判断とは異なることを強いられるということだからである。

 とはいえ、自由判断はある種の必然性とは両立する。まず、神への依存という必然性と両立する。また道徳的な必然性とも両立する。イエスの道徳的な性質は、彼が罪を犯すことを許さない。それでも、彼の良き行動は自由に選ばれたものである(彼の知性による判断に従ってなされたものである)。堕落した人間の行動は常に罪深い。それでも、その者たちの行動は自由である(その者たちの知性による判断に従ったものである)。

 また、自由判断は神の決定からくる必然性とも両立する。なるほど人間の行為は、一度神の決定が下されたならば必然的である。しかし、それはあくまでそのような神の決定が下されたならば、という条件のもとでの必然性である。絶対的な必然性ではない。別の決定が下されていたならば、別の判断がなされていただろう。

 マレシウスの考えでは、意志というのは実践理性の最終的な判断によって決定される。しかし、この見解は改革派のあいだであまねく受け入れられていたわけではない。ペトルス・ファン・マストリヒトは、Theoretico-Practica theologia のなかで、マレシウスに反論している。もしマレシウスが正しいなら、人間を回心させるために恩寵は知性だけを照らし出せばいいことになる。しかしこれは聖書の教えに反する。よって意志が知性の判断に従うのは、その判断が意志のあり方に合致している場合だけだとマストヒリとは考える。このため回心のためには、意志のあり方も恩寵が変えなければならない。