「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。 多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない(カエサル)」について、混沌とした状況になっているので整理します。

 カエサルのそのテキストの引用をしている人は、元テキストについてどれだけのことを知っているか知らないので、丸っきり知らない人のために元テキストを紹介しておきます。

 しかし、この元テキストが曲者なのです。1) この格言の(おそらくは)典拠である箇所、2) 塩野氏が紹介している格言、3) 愛・蔵太さんが元テキストとして提示されているもの。この三つが整理されないまま、ぐちゃぐちゃになっています。だから、すこしここで整理します。

 まず前提から。カエサルに帰されているこの言葉が日本で有名なのは、塩野七生氏が『ローマ人の物語』の中で紹介したからです。塩野氏は次のように紹介しています。

人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。 多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない*1

 この言葉の典拠はどこにあるのか。現存するカエサルの作品は二つです。すなわち『ガリア戦記』と『内乱記』です。まとまったものとしては、その他にプルタルコスによる伝記が残っています*2。だからカエサルの言葉として引かれている以上、この三作品のどこかに対応する箇所があるはずなのです。しかし、いずれの作品中にも、塩野氏が紹介されている格言に正確に対応する文章はありません(私が知る限りでは)。

 そこで、次善の策として、上記格言の典拠となっていそうな箇所を引いてくることになります。するとやはり、愛・蔵太さんが元テキストとして引用されている『ガリア戦記』第3巻第18章に行き当たります。

 ではそこには何と書かれているのか。

fere libenter homines id, quod volunt, credunt. ほとんどの場合、人間たちは、自分が望んでいることを喜んで信じる*3

 塩野氏の紹介と比べると明らかですが、「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない」という前半部分がありません。もし、塩野氏がこの箇所を典拠にしてカエサルの言葉を紹介したとすると、前半部分は塩野氏による補足ということになります。

 また、後半部分については、愛・蔵太さんが紹介されている元テキストが、正確には元テキストではないことが分かります。つまり、『ガリア戦記』の当該箇所には、「ほとんどの場合 fere」という単語があるのです。一方、愛・蔵太さんが紹介されているラテン語からは、「ほとんどの場合 fere」が脱落しています。諸写本は一致して「ほとんどの場合 fere」を伝えているので、これを落としてしまうのは文献学的に許されません。また、「ほとんどの場合」があるのとないのとでは、文章の意味も変わります。たとえば、「人間は死ぬ」と「人間はほとんどの場合死ぬ」とはぜんぜん違いますよね。

 一方、塩野氏が紹介されている「多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」という言葉については、「多くの人は」が「ほとんどの場合は」に対応していることが分かります。つまり、塩野氏は「ほとんどの場合 fere」という言葉を落としてはいません。

 最後に残るのは、「見たいと欲する現実しか見ていない」という部分です。この部分が意訳しすぎかどうか。正確には「望んでいることを喜んで信じる」と訳さねばなりません。しかし、私としては、この訳は許容範囲内だと判断します。ただ、このレベルの意訳を認めるかどうかは、『ローマ人の物語』全体の評価にもつながる重要な問題なので、難しいところではあります。

 以上をまとめると次のようになります。

  • 「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。 多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」という文章に正確に対応するカエサルの言葉は伝えられていない。
  • 典拠となっている箇所は、おそらく『ガリア戦記』第3巻第18節である。
  • その場合、塩野氏が紹介している言葉の前半部は、塩野氏による補足とみなす必要がある。
  • 愛・蔵太さんが当たられているラテン語テキストは、「ほとんどの場合 fere」という単語を落としている不正確なものである。
  • 塩野氏が紹介されている言葉の後半部については、かなりの意訳ではあるものの、許容範囲内であると私は考える。

 ところで、『ガリア戦記』第3巻第18章はどのような場面を描いたものなのか。それについては、『ガリア戦記』を手にとって確認してください。

ガリア戦記 (講談社学術文庫)

ガリア戦記 (講談社学術文庫)

ローマ人の物語〈8〉ユリウス・カエサル ルビコン以前(上) (新潮文庫)

ローマ人の物語〈8〉ユリウス・カエサル ルビコン以前(上) (新潮文庫)

*1:ユリウス・カエサル ルビコン以前(上) ローマ人の物語8』、新潮文庫、2004年、5頁。ちなみに、単行本では同じ箇所に別の言葉が収録されています。どうでもいいのですが、『パクス・ロマーナ ローマ人の物語VI』、新潮社、1997年、7頁では、最後の「見ていない」が「見ない」になっています。

*2:細かいものとしては、サルスティウスの作品中に引かれているカエサルの演説があります。

*3:W. Hering (ed.), C. Iulius Caesar, Bellum Gallicum (Stuttgart, 1987)に依拠。ただ、この箇所には異読がなく、テキスト解釈上の議論もないようなので、どの校訂を用いても同じだと思います。