リプシウスについての基本文献

  • 『ユストゥス・リプシウス:ルネサンスストア主義の哲学』 Jason L. Saunders, Justus Lipsius: The Philosophy of Renaissance Stoicism (New York: The Liberal Arts Press, 1955).

 よかった。これはいいです。とりあえずストア主義の受容史に関心がある人は手元に置いておくべき研究書だと思われます(id:prokoptonさん!)。

 リプシウスの生涯、交友関係を前半でまとめ、後半でリプシウスによるストア派倫理学、及び自然学の解釈を解説していきます。ストア派の運命論に関心がある人(シリンダーとか好きな人)にとっては倫理学を扱った部分が参考になるかと思います。

 私が面白かったのはリプシウスが自身の哲学観を述べる次のような文章です。

 以上のことから私は一人の人間に、ましてや一つの学派に頑固に執着したくはないと考えた。それはどんな隷属だろうか。

 他の者はくびきにつながせておけばよい。あなたは私と一緒に、あるいはセネカと一緒になって、率直に次のように言わねばならない。

 「私は自分を誰かに売り渡したことはない。誰かの提灯持ちに私はなっていない。しばしば私は偉大な人々の判断に従う。またあることは自分の判断によって要求する」。

 もし大いに仲間に加わりたいものがあるとすれば、私の考えでは安心して加わることができる学派はたった一つである。それは折衷学派である。この学派はアレクサンドリアのポタモンという人物によって導入されたもので、実に私の考えに合致するのだ。

 このポタモンについてディオゲネス・ラエルティオスは次のように述べている。「最近、折衷学派もまたアレクサンドリアのポタモンによって導入された。この学派は諸学派の一つ一つから学説を選び出す」*1

 これはガッサンディの次のような発言と近いです。長いですが引用。

 これを機会に、ここで次のようなことも言っておきたい(私が常に述べてきたことではあるが)。すなわち、私はいかなる学派にも与さないことにしている。私はすべての哲学学派に敬意をはらっている。ある学派が他の学派よりも何か正しいことを述べているように思われるときは、時にはこの学派、時にはあの学派の述べることにしたがうのである。

 私が唯一離れないでいるのは正統信仰だけである。正統信仰とは、祖先によって受け継がれてきたカトリックの宗教であり、使徒が伝えた宗教であり、ローマの宗教である。それ以外については、私は常に権威よりも理性を優先させるようにしている。確かに私は、明敏に学説を提示している人々を、感謝の念を込めて愛好しているし、高く評価している。彼らとしても、私にそのように考えられていやがることもないだろう。しかし、彼らは公明正大な人々であったので、自分が私たちの主人になるよりも、私たちの先達者になることを望んだのではないかと私は考えている。

 確かにエピクロスが他の人々よりも魅力があるように思われる。というのも、彼の生き方に帰せられた汚名をそそいでみて、私は次のようなことを発見したように思えたからである。すなわち、自然学における真空や原子の理論、また倫理学における快楽の理論といったエピクロスの立場によって、他の哲学学派の立場によるよりも、はるかに多くの困難がいっそう容易に解決されるように思われたのである。

 とはいえ、だからといって、私が彼の学説のすべてに同意するわけではない。とりわけカトリックの信仰と相容れない学説に関しては同意することができない。また同意するものについても、疑う余地のない確かなものと考えて受け入れているわけではない。そうではなくて、その学説が真実に近いという枠の中で、他の学説よりも適切であると考えているのである。したがってエピクロスの学説の多くを、他の哲学者の学説の提示したあとに配置している。また私としても、多くの点で、自分自身の見解を擁護することができるかどうかを試みることにする。

 すなわち哲学する自由は誰からも奪われてはいないのである。そして、真理がすべての人にとって目指すべきものとなっているとき、真理にいっそう近づいている人は幸せとみなされてしかるべきである*2

 他にもいろいろ気になった点はありますけど、とりあえず今日はここまで。

*1:Lipsius, Manuductio, in Opera, 4:633.

*2:Gassendi, Syntagma, in Opera, 1:29-30.