初期近代における数学的機器

 オックスフォード大学大学で博物館員をつとめる筆者は、初期近代の自然認識の変革に機器とその製作者たちがなした貢献を長年に渡って探求しています。機械論哲学というのは、まさに機械職人たちを淵源とするのだという影響力のある論文も執筆しています。ここで紹介するのは、科学史雑誌Isisの最新号の特集「科学的機器の歴史」に彼が寄せた論文です(リンク先から無料で入手可能)。

 16世紀から18世紀にかけて、数学的機器(アストロラーブ、日時計四分儀、セオドライト、銃などの照準具)は継続的に、また大量につくられていました。その量は歴史家の関心を引いてきた望遠鏡、顕微鏡、空気ポンプなどとは比較にならないほど多いです(空気ポンプはまじ少ない)。17世紀にいたるまでの機器の文化というのは数学的諸分野で利用されるものによって主に支配されており、機器使用の先導となっていたのが天文学の分野でした。天体の位置を計測することから、アストロラーブ、日時計四分儀の使用まで機器は天文学の書くべからざる一部を占めるにいたったいたのです。天球儀をはじめとする天文学分野での機器というのは、何よりもその学問活動の実践のために設計されたものであり、逆に天文学という分野自体が機器を不可欠のものとして使うという事実によって性格づけられることになりました。

 天文学分野での機器使用は、機器だけを独立に扱う数多くの論考を生み出しました。1513年にヨハン・シュテフラーが出版した『アストロラーブの製作と使用についての説明』(こちらで読める)や、セバスティアンミュンスターによる日時計についての書物、ジョヴァンニ・パオロ・ガルッツィの『天文学と宇宙誌の様々な道具の製作と使用について』(1597)がその代表例です。このような独立した書物の出版は、機器がその大元にある学問分野(この場合は天文学)から一定程度独立した営みでありえたことを示しています。これらの書物の出現は、自身が精密な天文観測を行う天文学者であったティコ・ブラーエによる『天文機器』を生み出しました(1598年;こちらのリンク先からたどるとカラーで読める!ただしなかなか開きません)。そこでは個々の天文機器が色付きの挿絵とともに詳細に解説され、天文学者が同種の書物をその後出版するのを促しました。

 歴史家と当時の機器製作者の関心のミスマッチがもっとも大きいのは、計測という営みにおいてではないかと思われます。たとえば持ち運び出来る時計というのは、単に時間を測るだけでなく、天文学の問題を解くためにも有用でした。また計測は天と地球の幾何学的関係を扱う宇宙誌の領域と密接に関連しており、事実当時の主要な数学者たちは計測を自らの分野に採って不可欠のものと位置付けていました。17世紀にはイギリスの数学者と機器製作者が重要性を増します。ロンドンのグリシャム・カレッジで教授職をつとめていたエドマンド・ガンターが製作した四分儀は、時間を測るだけでなく、地平線、黄道などを指し示す目盛りがつけられており、多くの天文学上の計算を行うことができました。ウィリアム・オートレッド日時計は18世紀まで使われ続けました。

 戦争や航海に必要とされる機器の発達も顕著でした。ガリレオの軍事コンパスは、大砲の大きさと砲弾の種類から、どの程度火薬を入れるべきかを計算するもので、数多い同種の発明のうちの一つです。メルカトル図法で描かれた地図を使って航行するために三角法を用いた計算を可能にする機器が、やはりイギリスのガンターによってつくられます。また彼はジョン・ネイピアによって発明されたばかりの対数を機器のメモリに組み込むことを行いました。

 数学機器の製作者たちは望遠鏡や顕微鏡をつくることにはたずさわりませんでした。もちろん望遠鏡をつかった観測が天文学で用いられる数学機具の改良を促したということはあります。しかし望遠鏡による革新が機器の性質そのものを変えるということはありませんでした。

 数学的機器と(望遠鏡のような)光学機器との境界があいまいになりはじめるのは、17世紀も終わりになってからです。その際には数学的機器製作者がひとつの団体を形成しておらず、そのため規制も緩かったロンドンが重要な役割を果たしました。機器製作者たちは数学的、光学的、自然科学的(空気ポンプとか)といった諸領域にまたがる機器を分け隔てることなく製作しはじめます。自然科学についての講義に参加し書物を買い、そして機器を買うことが流行する時代に適応した動きです。また政府に天文学的測量を任命された委員会が、この時期には伝統的に数学的機器を製作していた者たちに機器の製作を依頼するようになりました。その結果製作者たちの中には王立協会の会員になるような人物も現れます。また自然探求の分野で要求される正確性の度合いが高まるに連れて、やはり伝統的に機器製作に携わっていた人物たちが呼び出されることになりました。こうして数学的機器とその製作者たちはその基本的性格を維持していたものの、それが当時の自然探求の文脈で占める位置づけが変わることにより、それら製作者たちが科学史の表舞台に姿を現すことになりました。

 数学的機器は光学的機器や自然哲学的機器よりも歴史が深く、また近年の科学史で強調されている商業、官僚制、戦争、帝国に深く関与していました。18世紀に入れば機器製作者ながら自然科学の領域で大きな貢献をなす人物たちも現れます。目立ちはしないが長きに渡って持続的に重要な役割を果たしてきた数学的機器を見逃してはならないという著者年来の主張があらわれています。