エピクロス主義の歴史

Epicureanism at the Origins of Modernity

Epicureanism at the Origins of Modernity

  • Catherine Wilson, Epicureanism at the Origins of Modernity (Oxford: Clarendon Press, 2008), 1–38.

 『エピクロス主義と近代性の起源』と題された研究書の第1章を読みました。いろいろと雑多なことが整理されないまま書いてあるものの、基本的には古代から17世紀まで、エピクロス哲学(と原子論)がどのように論じられていたかが書かれています。エピクロスの哲学はキリスト教の教義と対立する要素を多く含んでいます。霊魂というのは物質であって、それゆえ死によって分解する。死後の世界というものはない。そもそも不死の神々を認める宗教というのは国家による統治のために考え出された装置に過ぎない。神というのは存在するけれども、それが世界に介入してくるということはない。世界にあるのは原子と空虚だけであり、巨大な空虚の中に無限の数の世界が形成されている。善の究極の根拠というのは快楽である。

 これらの教えはディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』、プルタルコスの『モラリア』、キケロの哲学作品を通じて伝えられます。キリスト教の教父たちは、エピクロス主義を快楽主義の哲学として激しく批判しました。批判の対象は主としてその倫理学に向けられます。たとえばアンブロシウスはエピクロス主義者たちは霊的ではなく肉的にだけ生きていると非難しました。同種の批判は初期近代に入ってからも見られ、たとえばルターは教皇のことを「エピクロス派の雌豚」と呼びました。カルヴァンエピクロス哲学を批判しています。

 エピクロスの自然学はキケロプルタルコスラクタンティウスに批判されていました。なぜ摂理がないのに世界に秩序が認められるのか。また霊魂の可死性の学説も攻撃されます。トマス・モアの『ユートピア』では、ユートピアにおいては快楽を行動原理とすることが肯定される一方で、摂理と霊魂の不死を認めないものたちは、一般人に自身の教説を説くことができないとされています。しかし彼等が個人的に司祭と論争することは、彼等の更生をうながすであろうから許される。

 ディオゲネス・ラエルティオスの著作がラテン語訳され、忘れ去られていたルクレティウスの『事物の本性について』が発見され出版されるにともない、エピクロス主義はその勢力を拡大していたようです。フランスではメルセンヌがパリだけでも5万人の無神論者たちがいると述べ、エピクロス主義のサークルを攻撃しました。24年には原子論の教説を教えたかどで3人の化学哲学者がソルボンヌに断罪されています。一方でガッサンディはが人間にアクセスできる蓋然的な知識の範囲内でエピクロス主義の原子論に基づく自然学を構築することが可能だと考え、それをキリスト教の教義と両立させるということを行いました。

 イングランドでは王政復古以降エピクロス主義についての議論は盛んではなくなってしまいます。しかしエピクロスの哲学は大学を非物質的な聖霊や天使について論じる場ではなく、物質的な世界を論じる場に変容させたという点で、近代性の出現に貢献をなしたとされます。