エピクロスに洗礼を

Divine Will & Mechanical Philosophy

Divine Will & Mechanical Philosophy

  • Margaret J. Osler, Divine Will and the Mechanical Philosophy: Gassendi and Descartes on Contingency and Necessity in the Created World (Cambridge: Cambridge University Press, 1994), 36–77.

 先ごろ亡くなったマーガレット・オスラーの代表作です。ピエール・ガッサンディエピクロスの哲学を復興させた人物として知られています。しかしエピクロス哲学はいくつもの点でキリスト教の教義と衝突していました。たとえばそれは神による世界への介入と、霊魂の不死性を否定しています。

 死後出版された代表作『哲学集成』のなかでガッサンディはこれらの衝突点をエピクロスの哲学からとりさって、彼にいわば洗礼をほどこそうとしました。世界に秩序があることは、それが(エピクロスの考えるように)偶然によってではなく、神によって創造され維持されていることを示しています。神より偉大なものはなにもなく、彼は矛盾しないこと以外は何でもすることができます。よって一度確立した自然のあり方に集成を加えることも可能です。しかし通常はそのようなことはせず二次原因をつかって世界を秩序正しい状態に保っています。

 こうした秩序付けられた世界を考察することで、自然哲学は世界が偉大な神の意志によって支配されていることを知り、それへの尊敬の念を抱くことになります。自然探求は「真の宗教」へつながると言われるのはこのためです。人間は神から特別な配慮を受けており、世界が美しいのも人間がそれを認識し神への讃歌を歌うためだとされます。

 ガッサンディはまた霊魂の不死性を原子論と両立させねばなりませんでした。動植物の霊魂(animaと呼ばれる)は、彼にとって「質料の花」と呼ばれ、非常に微細であり高速で動く原子の集合とされました。この原子群の活動によって生命活動の証である熱が生み出されます。このような物質的霊魂は世界のはじめに神によって創造され、それ以後は火が松明から松明へと受け継がれてきたように、現在に到るまで存在し続けているとされます。

 これに対して人間の霊魂(animusと呼ばれる)は受精のたびに神によって創造されて、感覚的霊魂を媒介に身体と結合するとガッサンディは考えました。それが(エピクロスの考えるのとは違って)非物質的であるのは、想像力の媒介を経ずに思考でき、かつ自己知を有するからであり、また普遍の観念を理解できるからであるとされます。非物質的である以上部分を持たずそれゆえ分解されず不死であるということになります。霊魂の不死性はまた大部分の人間が同意していることである以上、自然の法則であると考えられます。新大陸の野蛮人のなかには不死性を信じていなさそうな者たちがいるものの、彼らとて悪霊を怖がっていたりするので実際には非物体的で不死なるものの存在を信じているに違いありません。確かにごくまれに不死性を信じないものがいるのは確かです。しかし一本足で生まれる者がいることが、人間が二本足であることを否定しないのと同じように、そのような例外的事例が不死性の信念の一般性を否定するわけではありません。また正義が成しとげられるためには、死後にこの世で犯した罪が罰せられなければならないのだから、このためにも霊魂の不死性が要請されるとされます。

 このように世界に神を導入して、あろうことかそれを倫理的要請と結びつけてしまうというのは、エピクロスの試みのすべてを台無しにしてしまうものではあります。しかし興味深いことにガッサンディは、エピクロスの哲学は別の哲学よりもキリスト教に合致させやすいと考えていました。彼はかつてスコラ学がアリストテレス哲学に行ったのと同種のことを、エピクロスに対してはより容易に行えると考え、その哲学の復興を志したのです。