イスラーム哲学概説 山本「イスラーム哲学」

西洋哲学史 2 「知」の変貌・「信」の階梯 (講談社選書メチエ)

西洋哲学史 2 「知」の変貌・「信」の階梯 (講談社選書メチエ)

 イスラーム哲学の最新の概説を読みました。同書に収められた「ヘレニズム哲学」とともに、優れた全体像を与えてくれます。イスラーム圏では哲学は(フィロソフィアの音写である)ファルサファと呼ばれ、神学・宗教諸学、および法学とは独立の学問分野として認知されていました。また哲学教育のための公的機関はなく、私的な集まりにおいて営まれていました。これは大学という場所で、法学や神学を学ぶ準備段階として哲学が学ばれた西洋中世以降のあり方とは大いに異なります。

 イスラーム哲学史の原点はキンディー(801頃–866頃)におかれます。彼はアッバース朝下で行われていた哲学著作翻訳活動の指導的立場に立っていました。その思想の特徴は、アリストテレスを新プラトン主義的に解釈するということを行いながらも、世界の神からの流出を認めなかった点にあります。ファーラービー(870頃–950)はアリストテレスに続く「第2の師」と呼ばれ、アリストテレスと(新)プラトン主義の統合を目指しました。彼において新プラトン主義的アリストテレス主義というイスラーム哲学の基本的方向付けが定まります。彼はその知性論においては、個々の人間の知性が究極的な能動知性を認識できるか否かという問題を提起しました。宗教論では宗教というのは哲学的論証によって真理を把握できない大衆向けに、想像力に訴えかけるように考案された物語であるという説を唱えました。宗教が哲学に従属しています。国家論はこれらの学説を基礎に、能動知性を認識した哲学者が、大衆向けに宗教を用いるなどして統治するのが理想国家であるという理論を展開しています。

 アヴィセンナ(980–1037)はとりわけアヴェロエスの本格的翻訳が行われる以前(1250年以前)にラテン世界で広く読まれました。またラテン語に翻訳されることのなかった『指示と勧告』は東方イスラーム世界で幾重にも注釈が重ねられる基本テキストとなりました。彼の形而上学では存在の学としての形而上学、必然的存在と可能的存在の区別、この区別と連動する本質と存在という後の哲学史で繰り返し取り上げられることになる問題が論じられています。たいして神学者ガーザーリー(1058–1111)は『哲学者の矛盾』で哲学者の学説を、哲学者の議論に沿う形で論駁しました。彼はそうすることで人間が理性のみによって神や世界について根本的な認識を得ることはできないと主張したのです。

 一方西方でも哲学の営みは行われていました。イブン・バーッジャ(1085/90–1139)は孤独に生きざるをえない哲学者が幸福になるのは能動知性と結合することによって成しとげられると主張しています。イブン・トゥファイル(1110頃–1185)は『ヤクザーンの子ハイイの物語』という寓話を用いて、哲学と宗教の真理は究極的には一致するものの、それによって大衆向けの宗教が否定されるべきではなく、宗教には宗教の意義があり、それゆえ両者は独立に営まれるべきであるとしました。霊魂単一説の提唱者として知られるアヴェロエス(1126–1198)は『決定的論考』のなかで、やはり哲学と宗教は矛盾しないとしながらも、両者は独立して営まれるものではないとしました。彼によれば哲学は啓示によって課される義務に従い法(啓示)を解釈し、その真意を明らかにする役割を担います。

 アヴェロエス以後西方イスラーム世界での哲学活動は途絶えてしまいます。しかし東方ではアヴィセンナの哲学を基礎に「神秘主義のロゴス化と、哲学の神秘主義化が同時並行的に生じつつ統合され」ます。イブン・アラビー(1165–1240)の存在一性論、スフラワルディー(1154–1191)の照明学が代表的です。これらの神智学はムッラー・サドラー(1571/72–1640)、ミール・ダーマード(1631没)を生みました。イスラーム・ペリパトス派の代表的人物としてトゥーシー(1201–1274)の名を挙げることができます(トゥーシー・カップルの提唱者として科学史では有名です)。

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