- 作者: 池上俊一
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2008/12/19
- メディア: 単行本
- 購入: 5人 クリック: 14回
- この商品を含むブログ (5件) を見る
中世の儀礼と象徴を扱った書物から、結婚、出産、葬儀を扱った箇所を読みました。教会が提唱する結婚のモデルが広く受け入れられるようになったのは13世紀に入ってからであり、それ以前は世俗的な結婚モデルが採用されていました。有力者間での場合は、結婚は家系を繁栄させるための手段でした。妻に求められるのは何よりも子を生むことであり、また血筋の確保のために妾が頻繁にもたれました。そこでは結婚する当人たちの意思は問題とされないことがしばしばでした。より下層の者たちについても詳細は不明ながら、やはり当人たちの意思というよりも、親の選択、農奴の場合は領主の選択が決め手となったと思われます。
このようないわば政略結婚のモデルにたいして、9世紀ごろから教会は一夫一妻で、解消不能で当事者の合意に基づく結婚というモデルを俗人たちに課そうとします。性道徳としては子供をつくるために夫婦の間でしかるべき時にしかるべき場所でしかるべき体位で性交渉をすることが求められるようになりました。結婚の際の儀礼も教会に取り込まれるようになり、当事者の同意の確認を司祭が取るようになります。「12世紀末には、結婚は法的に教会に属するものになる」。とはいえ政略結婚モデルが駆逐されたわけではなく、教会を経由した新たな装いのもとで、とりわけ上層市民のあいだで家のあいだの財産のやりとりを軸にした複雑な婚礼儀式手続きが整備されることになりました。
生まれた子供にたいして行われる儀式は洗礼です。洗礼を受けずに死亡すると、原罪が消えないため幽霊化すると恐れられました。だからとにかく速く洗礼が施されました。まずは生まれた直後にお産の世話をした女たちや父母によって緊急洗礼が行われいたようです。翌日には教会で正式な洗礼が行われました。15世紀までは頭に水を垂らす方式ではなく、水の中に身体をつける方式で洗礼が行われました。これは体力のない新生児にはハードな試練で、ときどき死んでしまったようです。それを恐れて洗礼は迅速に行われました。その後は飲めや食えやの宴と子供への贈り物贈呈が行われました。
生まれた子供もいつかは死ぬ。というわけで死の準備は遺言状作成からはじまります(つくらないと天国に行けないとおどされたらしい)。そこではたとえば遺産によるミサの買取が指示されました。中世後期ではミサを挙げてもらうことで死後の煉獄での滞在時間が短縮されると考えられたからです。今にも死にそうになると、教区教会の司祭が行われ聖体拝領が行われます(しばしばセットで終油も)。いざ死ぬとそれまで看病をしていた女たちが遺体を水とワインで洗浄して、屍衣に死者を縫い込みます。祈りを姿勢を死体に保たせるために手首が縛られました。それ以後の段階では女性の排除が行われ、遺体を教会まで運ぶ葬送行列では彼女たちは脇に追いやられることになりました。その後教会で葬儀が行われます。
誕生から墓場まで個人、家族、社会という三つの次元でキリスト教的要素と世俗的(異教的)要素が入り交じった形で儀礼がとり行なわれていたことがわかります。
最後に死が確認されたときの俗人たちの振る舞いについての印象的な描写を。
死者を目の前にして、俗人は激しい身振りに身を任せる。静かな臨終までの様相とはうって変わった、けたたましい葬礼の始まりである。妻は死者を抱き、友人はベッドの上に身を投げ、近親は気を失うか、または苦痛の印として手を捩り、掌を打ちつける。墓場では寡婦は激しい身振りで泣き崩れて墓穴に飛び込もうとする。さらに悲嘆の身振りが過激になり、胸を叩き、血が出るまで顔を引っ掻き、髪の毛や髭を引き毟る自傷行為にいたると、教会の懸念は一層高まる。いずれにせよ、こうした過激な身振りが、死別の悲しみを表し、自らを慰める俗人のやり方であった。(107–108頁)
関連書籍
愛と結婚とセクシュアリテの歴史―増補・愛とセクシュアリテの歴史
- 作者: ジョルジュデュビー,福井憲彦,松本雅弘
- 出版社/メーカー: 新曜社
- 発売日: 1993/12
- メディア: 単行本
- クリック: 3回
- この商品を含むブログ (1件) を見る