『エヌマ・エリシュ』からパルメニデスへ ヴェルナン「神話から理性へ」

叢書『アナール 1929-2010 歴史の対象と方法』 2 〔1946-1957〕

叢書『アナール 1929-2010 歴史の対象と方法』 2 〔1946-1957〕

  • ジャン=ピエール・ヴェルナン「神話から理性へ アルカイック期ギリシャにおける実証的思考の形成」塚島真実訳『叢書「アナール」1929–2010 歴史の対象と方法 II』藤原書店、2011年、335–365ページ。

 イオニア自然学の宇宙論とは、それ以前の神話的宇宙創成の物語を、非宗教的な形式で説明しようという試みでした。たとえば『エヌマ・エリシュ』に見られるバビロニアの神話・祭儀では、神の力を持つ王が自然と社会の双方の秩序創始者として語られていました。そこでは不定形のものから秩序だった世界が生み出されます。しかし王をなくしその記憶を消し去ろうとしたギリシアでは、秩序ある世界はもはや神と王にまつわる神話では理解できなくなりました。「そうして事象は以後、それらについて議論が開始される『問い』として提示される。…こうして哲学者は、古い王=魔術者、時間の支配者の後を引き継ぐ。哲学者は、かつて王が実行していたことの理論を作るのである」(342ページ)。

 こうしてこれまで神話の神に帰されていた宇宙の秩序が、イオニア自然学においては抽象的な力として理解されます(たとえば「熱いもの」とか「乾いたもの」とか)。自然はこのような力が作用する全体的で一元論的なメカニズムとして理解されるようになります。その理解のためのモデルも、これまでのように生物ではなく、技術的なものに変化していきます。

 しかし同時にイタリアの地で、イオニア自然学とはことなる形式の思考が現れます。そこでは自然(ピュシス)は一元的に把握されるのではなく二元化されます。人間には身体と霊魂がある。同じように自然の背後には見えないけれど、より真である現実がある。

 この後者の潮流の起源は、魔術者・呪術師・賢者と言われる、目に見えないものを見る一群の幻視能力を秘めた人々にさかのぼります。詩の形式で、宗派・教団の語彙を用いながら、現象の背後に真の現実を見る哲学者もこの人々の伝統を引き継いでいます。しかし同時に個別の魂があり、これが輪廻転生するというようなピュタゴラスの教えは、北アジア文明のシャーマン伝統と関連を持っています。彼らシャーマンは極度に規律化された生活により、その魂を肉体から分離させ、また肉体に戻すということができるとみなされていました。ギリシアではこうして分離した魂は過去の輪廻の記憶を思い出すことができるとされます。この議論はピュタゴラスに引き継がれています。

 しかしピュタゴラスはもはやシャーマンではなく、この秘密を彼の教団の人々に開示しました。宗教的秘密を明かすことは、ポリスの到来を準備した社会変動と対応するものでした。そこでは王族や貴族が保持していた宗教的な伝統が、一般化され、国家へと組み込まれていっていました。哲学はこの開示をもっとも徹底的に推進したのです。実際、タレスアナクシマンドロスヘラクレイトスは宗教的特権を持つ家柄なり部族と関連を持っていました。彼らはそうした伝統を普遍化したのです。

 このような哲学の出現とポリスの誕生とのあいだにある関連は、ポリスの性格を考察することでさらに明らかとなります。ポリスでは政治的秩序が宇宙の構造から切り離されました。クレイステネースの改革では、季節に対応する部族制に代えて、純粋に地理上の区分にもとづく部族を設け、しかもそれらの構成を地域的に意図的に混合させました。こうして多様な住民が個人的関係や家族関係から離れて政治に参画する抽象的空間がつくりだされます。この機構的人口性に人工的に定められた行政上の時間区分が加わります。こうして社会を自然から分離させるのです。また貨幣の出現は贈与と交換により、人間同士の関係が結ばれ、宗教的力が集められるような仕組みを廃棄し、価値の普遍的な尺度という考え方を導入しました。哲学が現れたのと同じ時期に、社会を宇宙や宗教的圏域から切り離し、抽象的空間として機能させるための制度や価値観が現れはじめていたのです。

 パルメニデスに至ると、もはやイオニアで用いられていた生成、愛、憎しみ、相反するものの結合と戦いといった神話から引き継いだ観念は、思考の道具として失格してしまい、思考の論理的要請が突き詰められて、単一の存在という観念が現れます。数学をモデルに自然発生的な言語から離れて哲学的思索を可能にした彼の哲学は、神話からの断絶を確立しました。しかしそれは同時に運動と複数性の非合理を告発することで、自然的現実とも切り離された哲学となったのです。以後のギリシア哲学の課題は「言説の理性的宇宙と自然感覚可能な世界の間のつながりを確立することに存するだろう」(363ページ)。

 ギリシア哲学の特徴は、超自然的なものの拒絶と、内的な論理の一貫性の追及です。これらの特徴を備えた思考法の到来は奇跡ではありません。

コーンフォードが示したように、哲学の到来は、過去に根づき、過去から出発し、同時に過去に抗って形成されるような歴史の一事実なのだ。こうした心性の変化は、紀元前7世紀と6世紀の間に、ギリシャ社会のあらゆるレベルで―ポリスの政治機構、法、経済的活動、貨幣において―生じた変容と関連しているように思われる(364ページ)。

関連書籍

ギリシャ思想の起原 (1970年)

ギリシャ思想の起原 (1970年)