情報をいかに探り当てるか 初期近代のリファレンス書における工夫 Blair, Too Much to Know, ch.3前半

Too Much to Know: Managing Scholarly Information before the Modern Age

Too Much to Know: Managing Scholarly Information before the Modern Age

  • Ann M. Blair, Too Much to Know: Managing Scholarly Information before the Modern Age (New Haven: Yale University Press, 2010), 117–60.

 ブレアの著作の第3章前半を読みました。リファレンス書にはどのような種類のものがあり、それらでは情報の発見を容易にするためにどのような工夫が行われているかを調べた箇所です。

 印刷されたリファレンス書は、1500年ごろから現れるようになり、その後すみやかにラテン語を読むことができる層に広まっていきました。ゲスナーは1551年の『動物誌』で、この本は全体を読むべきものではなく、調べものをするためのものだという断りを入れています。しかしリファレンス書の普及により、このような注意書きは必要なくなりました。

 本書でリファレンス書と呼ばれているジャンルに類似たカテゴリーが、ガブリエル・ノーデが1627年に出版した『図書館設立のための助言』に現れています。ノーデによると図書館は、Common Places, Dictionaries, Mixtures, Lectiones, Collections of Sentencesを備えておくべきです。

 リファレンス書のなかでもっとも広く用いられていたのは、辞書でした。1450年から1650年のあいだに約150の辞書が出版されています。代表的なものは1502年に出されたアンブロジオ・カレピノの『辞書 Dictionarium』(これ)でした。この本は16世紀に165, 17世紀に32, 18世紀に13の版を数えることになります。ラテン語-ラテン語辞典としてはじめられたこの辞典は、版を重ねるごとに増補され、最終的には11の言語の情報を含むものとなりました。同書の成功は「カレピノ」を辞書の代名詞にし、1870年に出されたラテン語-日本語辞典にもカレピノという名称がつけられていました。またこの成功は辞書のことをDictionarium(dictionary)と呼ぶ慣習を定着させました。カレピノの辞書はあくまで古典期におけるラテン語を扱う辞書であり、18世紀の版でも宇宙の中心としての地球(terra)というエントリーがありました。カレピノに加えてゲスナーのような固有名詞辞典をつくる者もいました(これ)。辞書はアルファベット順に項目が並べられるため、それ以上の情報検索のための仕掛けを備えていませんでした。

 格言を集めた精華集は古代、中世より続く人気のあるジャンルでした。印刷された精華集のなかでもっとも成功したのは、ドメニコ・ナニ・ミラベッリの『ポリアンテア』(1503年)でした(1600年版)。ナニは読書や会話や、過去の格言集から仕入れた格言を集めて本書を著し、その後別の人々がその増補を行いました。『ポリアンテア』は、引用された著述家のアルファベット順のリスト、項目のアルファベット順のリスト、各項目を視覚的に表現したダイアグラムを含んでいました。

 ルネサンス期にはゲッリウスの『アッティカの夜』に範をとった雑録集のようなジャンルもありました(Mixtures, Lectiones)。ルドヴィコ・リッキエリの『古代の読み』やエラスムスの『格言集』(これは1696年までに163の版を数えた)には、幾種類かの索引が付され、調べ物のための書物として利用できるようになっていました。ただしモンテーニュの『エセー』のように出版から約50年のあいだ索引を欠いていたような雑録集も存在しました。

 コモンプレイスブックは精華集とかなりの部分が重なるものの、単なる格言の集積ではなく、ある主題についての教えや、その教えを例解する範例(exemplum)も含んだものでした。たとえばヨハネス・リヴィシウス・テクストル『仕事場Officina』(これ)や、テオドル・ツヴィンガーの『人生の劇場』が典型例です。『人生の劇場』の初版には、項目の索引(書物で現れる順番通りに並べたものとアルファベット順のもの)しかついておらず、ツヴィンガーと出版者はそれを不十分とみなしていました。この不十分さは、疫病が蔓延するなか、フランクフルトのブックフェアに間に合わせるためしかたがなかったとされています。その後のエディションでは(内容の増補に加えて)事項索引などさらなる索引が追加されました。

 これらのリファレンス書に備え付けられた情報検索のための仕掛けにはいくつかの種類がありました。一番古いのはその本で引かれている著者をリスト化したものです。大抵の場合、これには著者が現れるページ数の記載はありませんでした。それは書物を使いやすくするためというより、書物を権威付けるという意味を持っていました。ただし1551年のエラスムスの『格言集』のように、とりあげられた著者が現れるページ数を網羅した例外的な索引を含む本もありました(これ)。

 書物に現れる項目(headings)をもとにした索引もありました。書物での順番通りに並べたもの(これはページ数あり)や、アルファベット順に整理したものがありました(こういうの)。ツヴィンガーはこの手の索引の不完全性をよく認識しており、むしろそれが不完全であるからこそ読者は索引を使うときに真剣でなければならず、怠けることが許されないという利点があると言っています。

 ツヴィンガーは『人生の劇場』の1571年の版に人名索引をつけました。当初は名前を項目として立てていました。17世紀終わりごろからは人名辞典では苗字が項目として立てられることが多くなります。

 今で言う事項索引もありました。索引が分離して調べるのが煩雑になるのを防ぐために、すべての索引を統合した総合索引を付すゲスナーやアルシュテッドのような著述家も現れました。アルシュテッドは索引の価値を高く評価しており、死ぬ間際に義理の息子にもうすぐ出ることになる本の索引づくりを頼んだほどでした。ピンクティウスという人物は『大劇場』のために687ページにものぼる総合索引をつくりました。このような巨大な書物への巨大な索引はチェインバーズやディドロダランベールの『百科全書』にもなかったものです。

 もう一つの仕掛けとしてダイアグラムがあります。たとえばナニの『ポリアンテア』にあるこういうものです。これはトマス・アクィナスの『命題集注解』の内容を整理したもので、あるトピックについてどう教えたり説教したりしたらよいかのアウトラインを示しています。ツヴィンガーもこのダイアグラムを多用しました。彼の場合、ダイアグラムは単なる理解のための便宜的なものではなく、自然の事物の秩序をあらわすものであり、彼のプロジェクトにとって本質的なものでした。

 読みやすく情報を探しやすくするためのページレイアウトも工夫されました。大文字、字下げ、マージンへの語句の挿入、項目が切り替わる箇所でのライン、様々な記号(たとえばツヴィンガーは、別の項目の参照を支持する箇所に指のマークをつけた。たとえばここの左下のように)。