「自然は何事も無駄には為さない」 Lennox, “Nature Does Nothing in Vain”

Aristotle's Philosophy of Biology: Studies in the Origins of Life Science (Cambridge Studies in Philosophy and Biology)

Aristotle's Philosophy of Biology: Studies in the Origins of Life Science (Cambridge Studies in Philosophy and Biology)

  • James G. Lennox, “Nature Does Nothing in Vain,” in Beiträge zur antiken Philosophie: Festschrift für Wolfgang Kullmann, ed. Hans-Christian Günther and Antonios Rengakos (Stuttgart: Steiner, 1997), 199–214, repr. in Lennox, Aristotle's Philosophy of Biology: Studies in the Origins of Life Science (Cambridge: Cambridge University Press, 2001), 205–223.

 「自然は何事も無駄には為さない」というアリストテレスの有名な前提に関する基本論文です。この前提をアリストテレスは次のように導入します。

 ところで、考察を始めるにあたって前提とすることがいくつかある。それらは自然の研究のためにたびたび私たちが使用してきたものであるのだが、自然の諸々のはたらきのすべてにおいて、この仕方で事物が成り立っているということを把握したうえで、そうしてきたのである。
 さて、それらの前提のうちの一つに、自然は何事も無駄には為さず、むしろ、動物の各々の類に関して、その本質にとって可能なことどものうちで最善のことを常に為す、というものがある。まさにそれゆえに、事情がこれこれの仕方であるということが、[他の仕方よりも]いっそう善いのだとすれば、事情がそのようになっていることは自然にかなったことなのだ。(『動物進行論』第2章、坂下浩司訳)

ここで述べられている前提は2つあります。一つは自然は何事も無駄には為さないということです。もう一つはある類の動物にとって可能な状態のうちで最善の状態を自然はその動物に与えるというものです。

 前者の前提も後者の前提も実地の自然の研究においては、論証抜きで前提とされる公理の役割を果たします。特に観察されるある事実に理由を与えるためにこれらの公理が用いられます。たとえば「自然は何事も無駄には為さない」という前者の前提は、肺とエラの両方を同時に有する動物がいないという事実に理由を与えます(両方を持つのは無駄。『呼吸について』第10章)。このように第一の前提は、生物における何かの不在(たとえば肺とエラの共存の不在)を説明するときに使用されます。一方、「自然は最善のことをなす」という後者の前提は、生物に何かが備わっていることを説明するために用いられます。

また、魚は、胴から離れた体肢をもたないが、それは、魚の自然本性が、本質の定義からして、泳げるものであるがゆえであり、自然は余計なことも無駄なこともしないからである。そして、魚は、その本質からして有血であるが、一方で、泳げるものであるがゆえに、鰭(ひれ)をもち、他方で、歩かないがゆえに、足をもたない。足の付加は、平地での運動[歩行]にとってこそ、役に立つものであるから。(『動物部分論』第4巻第13章、坂下訳)

ここでは第一の前提から魚が足を持たないとされます。第二の前提からは、泳ぐという魚の本性上、鰭(ひれ)を持つことが最善であるがゆえに、魚は鰭を持つのだということが説明されます。

 このようにアリストテレスが置く二つの公理は主として、自然の状態を説明するために用いられます。しかしときに彼は同種の公理の異なる用い方を提唱します。

これらの学者たちがこれらの事について道理に適ったことを述べることができない主要原因は、彼らがこれらの動物の内部の諸部分について知っていないこと、および自然は何かのためにすべてのことをするのであるということを理解していないことである。なぜならもし彼らが何のために動物に呼吸が在るかを尋ね、またこの事をたとえば鰓(えら)や肺のごとき諸部分に関連させて考察したならば、その原因をもっと早く発見したであろうに。(『呼吸について』第3章、副島民雄訳)

 ここでは自然が目的に適ったものごとをなしとげるということを、自然研究における発見を導く調査上のガイドとして使うことが勧められています。初期近代にウィリアム・ハーヴィが血液循環を発見したとき、彼は「自然は何事も無駄には為さない」というアリストテレスの公理を調査上の指針として用いていました。ルネサンスアリストテレス主義が経験的で仮説の上にたった自然へのアプローチを志向したとき、アリストテレスの公理はそれをたしかに導いたのです。