アラビア、ラテン中世、初期近代における天の霊魂 Wolfson, "The Problem of the Souls of the Spheres" #2

Studies in the History of Philosophy and Religion, Volume 1

Studies in the History of Philosophy and Religion, Volume 1

  • Harry A. Wolfson, "The Problem of the Souls of the Spheres from the Byzantine Commentaries on Aristotle through the Arabs and St. Thomas to Kepler," Dumbarton Oaks Papers 16 (1962): 65–93, repr. in Wolfson, Studies in the History of Philosophy and Religion, 2 vols. (Cambridge, MA: Harvard University Press, 1973–77), 1:22–59.

 Wolfson論文の続きです。天球を動かす霊魂を扱ったギリシア語論考の大部分がアラビア語に訳されました。このため天球の霊魂がその自然本性と同一かどうか、及びそれが感覚能力を持つかどうかといった問題はアラビア哲学でも議論されるようになります。アヴィセンナは霊魂と本性の関係について、シンプリキオスと同じ立場に立ちます(ただシンプリキオスの『天について注解』がアラビア語訳されたという証拠はない)。天の霊魂はその自然本性とは区別される。霊魂と本性の二者が協同することで回転運動が引き起こされるというのです。ただし本性を動力(rope^)と同一視する点で、アヴィセンナアレクサンドロスにならったと考えられます。アヴィセンナは霊魂が感覚能力を持つことを否定しており、この点でアレクサンドロスと同じ意見です。彼は霊魂の能力のうちに想像力を加えた点で独自性を発揮しています。

 アヴェロエスアヴィセンナを否定し、天球の霊魂はその自然本性と等しいと考えました。アレクサンドロスにしたがった主張です。動物がその生存にとって霊魂を必要とするのと同じ意味で、天球は霊魂を有しているわけではない。その自然本性が霊魂と言われるのは、地上のあらゆる事物よりも高貴な天が霊魂をもたないと考えるのが不合理であるからに過ぎない。したがって、天球の本性を霊魂と呼ぶのは厳密な用語法ではない。こうアヴェロエスは(アレクサンドロスにならって)考えました。アヴェロエスはやはりアレクサンドロスにならい、霊魂が感覚能力を持つことを否定しています。

 その他のアラビア哲学者としては、ファーラービーが天体に霊魂を帰しました。それは感覚も想像力も持ちません。イブン・ハズムは天球と天体が知性を持っており、この知性は聴覚と視覚をもつが味覚と嗅覚を持たないという学説を取り上げ、それを根拠のない考え方と指摘しています。ガザーリーは天球が霊魂をもつというのは理性的には論駁することも論証することもできないとします。アヴェンパケは天球は自然本性上動くと主張しました。

 ユダヤ人哲学者のなかでは、Isaac Israeliが天球が理性的な霊魂を有すると論じています。Saadiaはアリストテレスの主張として、天が霊魂によって動くという学説を挙げ、それを批判しています。Judah Haleviは天使なり霊魂なりが天球を動かすという見解は証明できず、関わっても得られるもののない無益な思弁の領域に属するとみなしました。

 トマス・アクィナスは『天について注解』のなかではシンプリキオスにしたがって、天はその本性と霊魂の協同によって回転すると主張しました。彼は天の霊魂が感覚能力を持つことを否定します。天球の霊魂がもつ能力は理解することと、動かすことだけになります。

 実はアクィナスは初期の著作(『命題集註解』)では、天を直接的に動かすのは霊魂ではなく、天使であるとしています。この直接的な動者と並び、(アリストテレスが不動の動者と呼びアラビア哲学者たちが知性と呼んだ)より間接的に作用する動者があるとされ、それもまた天使と呼ぶことができるとアクィナスは考えました。最初の直接的な動者である天使は、後者の天使よりも劣位にあると、アクィナスはアヴィセンナを引きながら主張します。

 ケプラーは1602年の著作(De rebus astrologicis)では星々を動かす単一の動者を想定しており、それを知性と呼んでいます。それは理解力と運動を引き起こす力をそなえている点で、アクィナスの規定を引き継いでいました。1606年の著作(De stella nova serpentarii)では、天体はそれぞれにとって生来の力(vis ingenita)によって動かされるとケプラーは言っています。この力は欲求と理解力と想像力を持つとされ、この点ではアヴィセンナとアクィナスの学説に接近しています。いっぽうこの力が推論を行わないという主張は、シンプリキオスの著作に現れた天球に霊魂を帰すことを拒絶する人々の考え方に近いものがあります。

 『コペルニクス天文学概要』(1618–21年)でのケプラーの関心は太陽の自転の原因を探ることでした。すでに天球は存在せず、惑星の公転は太陽から発せられる力の作用によって引き起こされるという学説をケプラーは確立していました。そのため太陽の自転が焦点となったのです。自転の原因についてケプラーは2通りの考え方を示しています。一つはアレクサンドロスの見解に近いもので、太陽という物体が持つ性質(これを霊魂と呼んでもよい)が自転を引き起こすというものです。もう一つはシンプリキオスの見解に近く、太陽において霊魂と本性が協同して回転が起こるとするものでした。