中世のユダヤ人 関『旅する人びと』

旅する人びと (ヨーロッパの中世 4)

旅する人びと (ヨーロッパの中世 4)

 明日の研究会のために、西洋中世世界における最大のマイノリティーたるユダヤ人がたどった歴史についてまとめた記述を読みました。ユダヤ戦争後ユダヤ人はローマ帝国の各地に離散しました(ディアスポラ)。彼らの主要居住地の一つはドイツであり、もうひとつはスペインでした。ドイツを中心に住むユダヤ人たちはアシュケナジーム、スペインを中心に住む者たちはセファルディームと呼ばれます。前者はイディッシュ語を用い、後者はラディーノ語を使用しました。この他にもこの二つのグループのあいだでは『トーラー』の読み方が異なるといった違いが見られます。

 キリスト教ユダヤ教を母胎に生まれたとはいえ、イエスのメシア性を否定し、キリスト教と異なる安息日規定、暦法、食文化を有するユダヤ教はやはりキリスト教文化圏のなかでは異質であり、マイノリティーでした。とはいえたとえばフランク王国は国際商業で重要な地位を占めるユダヤ人に寛容であるなど、11世紀末までは大規模な反ユダヤ運動は生じませんでした。しかし第1回十字軍(1096年)を契機に、「神殺し」(神であるキリストを殺害している)の民であるユダヤ人への敵意が高まり大規模な虐殺が起こります。以後たとえば「悪魔の宗教」を奉じるユダヤ教徒たちは幼いキリスト教徒の少年をさらい犠牲に供しているだとか、聖餐式のパン、つまりキリストの身体を盗み出し、シナゴーグの中でそれを切断し、それによりキリストを殺害しているだとかいう非難がおこります。特に14世紀なかばの黒死病(ペスト)の流行のさなか、悪魔と結託して井戸に毒物を投げ込んでいるとして、多くのユダヤ人が虐殺され、シナゴーグが破壊されました。ドイツから多くのユダヤ人が追放されることで、アシュケナジームの中心は東ヨーロッパに移ります。

 一方13世紀までのセファルディームは東と比べるとより安定した共存生活を維持していました。しかし14世紀以降はスペインでも激しい反ユダヤ人運動が起きます。1391年にセビーリャではじまった運動は各地に拡散し、多くのユダヤ人が強制的に改宗させられました。この改宗したユダヤ人(コンベルソ)民衆が真の改宗者であるのか、それとも偽装改宗者であるかは大問題となります。その結果、3, 4世代遡って異教徒がいるような家系の者には都市官職保有を禁じる「血の純血規約」が定められました。カトリック両王は1480年に最初の地方異端審問所を開設して、コンベルソの真の改宗に乗りだします。しかしユダヤ人に対する裁判権を有さない異端審問所の力では、ユダヤ人との緊密な関係を維持するコンベルソの真の改宗は望むべくもありません。そこで両王は1492年に全ユダヤ人の四か月以内の改宗か追放を迫ります。これによりユダヤ人とコンベルソを真のキリスト教徒にしようとしたのです。こうして追放されたユダヤ人の多くはオスマン帝国に迎え入れられ、その他の地域に分散した仲間たちと広域的なネットワークをつくることになります。

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