カルダーノとアヴェロエス García Valverde, "Averroistic Themes in Girolamo Cardano's De Immortalitate Animorum"

  • José Manuel García Valverde, "Averroistic Themes in Girolamo Cardano's De Immortalitate Animorum," in Renaissance Averroism and Its Aftermath: Arabic Philosophy in Early Modern Europe, ed. Ann Akasoy and Guido Giglioni (Dordrecht: Springer, 2013), 145–71.

 カルダーノがその霊魂論のなかでアヴェロエスの学説をどうとらえているかを検討した論文です。全体としては何が言いたいのかわからないものの、いくつか重要な知見を得ることができます。ここでは肝の部分の詳細な紹介は避けて全体を軽くまとめます。

 カルダーノの『霊魂の不死性について』は、人間の個別的霊魂が生前の記憶を保持することなく輪廻転生を繰り返すという学説をアリストテレスに帰しています。この解釈を打ち出すにあたり、彼は3つの立場と対決していました。一つはアヴェロエスの立場であり、アリストテレス解釈に宗教的配慮を持ち込むことに反対していました。そこでアヴェロエスは知性の個別的存続を否定し、永遠に存在するのは単一の知性のみとしました。第二の立場はトマス・アクィナスのものであり、アリストテレス哲学と信仰が教えるところの一致を唱え、個別的霊魂がその個別性を維持したまま死後も存続するとするものでした。第三はポンポナッツィの立場で、哲学と神学を切り離した上で、哲学の領域では霊魂の不死性を証明できないと考えるものです。アヴェロエスの立場にたいしてカルダーノは、個別的霊魂の不死性を唱えました。アクィナスの立場に対しては、哲学上の証明と信仰上の真理とを切り離すことを提唱しました。この切り離しを行う点でカルダーノはポンポナッツィにならっていたものの、しかしポンポナッツィのように不死性を理性的に証明不可能とはみなしませんでした。

 知性単一論に反対するカルダーノは『霊魂の不死性について』の第9章をその批判にあてています。そこで彼はどのような論拠が知性単一論の証明であげられているかを紹介します。第一に永遠に続く世界のなかで個人の霊魂が残り続けるなら、存在する霊魂が無限となってしまいこれは不可能です。第二に教師から生徒に同じ知識が伝えられるのだから、その同一性を保証する単一の知性がないといけません。第三に知性は質料を持たないので、質料から離れた知性に個別性を認めることはできません。第4はよくわからないのですけど、どうやら知性が複数あるとすると、知性認識の対象が無限に増殖してしまうというものです*1。これらのうちのいくつかへのカルダーノの反論が論文では紹介されています。第一の論拠に対しては、霊魂は輪廻転生するのだから、永遠の時間のなかにあっても数は無限にならないと反論されます。第二の論拠には、知識の同一性というのは、同じ事態をたまたま同じように見ているということであって、知識の同一性から単一の知性の存在が要請されるわけではないというものです。

 これらの論拠の紹介のあとにカルダーノは、知性単一論の提唱者たちが互いに異なることを主張しているので、この学説は信用が置けないという反論をしています。提唱者として挙げられるのは、テオフラストス、テミスティオス、シンプリキオス、アヴェロエスです。この部分の詳細な紹介は別の記事を立てるとして、ここではテオフラストス解釈についてメモしておきます。テオフラストスに知性単一論を帰すことが本当にできるかどうかは残された史料からは疑わしいものがあります。しかしカルダーノは帰しました。なぜか。それはアヴェロエスのテオフラストス解釈によると著者は主張しています。

メモ

太陽と光の比喩と知性論の関係を、各思想家ごとに明晰に弁別して整理するということはぜひ行われなければならない。これはいい出発点になる。

*1:あるものについて個別的霊魂が種としては同じだが数としては異なる知性認識の対象を持っているとすると、その知性認識の対象について、種のレベルでの同一性についての新たな知性認識の対象がつくれてしまい、しかしこの対象もまた結局は個別的霊魂にそれぞれ保持されている以上やはり普遍的知識をそこから作れてしまうので、結局無限後退するという考え方の模様。