思索抜きの自然と技術 茶谷「自然と技術のアナロジー」

 アリストテレスの自然概念を理解するうえで欠かすことのできない重要論文です。アリストテレスは自然の目的性を技術の目的性との類比で説明しています。ある技術は特定の使用目的をもつ制作物をつくる原理です。おなじようにある生物種の形相はその生物種という特定のものの発生の原理であるというわけです。ここで技術にはその技術を用いる職人がいることを考えるなら、この類比をみとめることは自然を擬人化してとらえることにつながるのではないでしょうか。[「自然は何も無駄にはしない」というような表現をアリストテレスが用いていることはこの疑いを強めます]

 これは正しい読みではありません。アリストテレスは技術との類比がもっともよくなりたつのは、思索や探求をおこわない人間以外の動植物とであるといいます。言い方をかえれば、自然の目的性も技術の目的性も思索や探求抜きで生じているということです。技術が思索抜きであるというのは直観に反します。職人はどうやって製品をつくるか思案するではないか?しかしアリストテレスの考えでは、技術というのは特定の目的のための制作物をつくるための原理であり、それ自体には思索の余地はありません。それは決められた目的を実現するための決められた手順にすぎないからです。同じように生物種にある形相としての自然もまた、決められた目的(その生物種)を生みだす原理であり、そこに思索が介在する余地はないことになります。

 よってアリストテレスの自然概念は自然の擬人化を含意しておらず、それは彼が使う技術との類比からも裏づけられるということになります。

関連文献

  • 高橋厚「『自然の作品は知性の作品である』:中世アリストテレス主義自然哲学における『生成』の論理」金森修編『エピステモロジーの現在』慶応義塾大学出版会、2008年、347–368ページ。

エピステモロジーの現在

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