中世大学におけるアリストテレスをめぐる駆け引き リンドバーグ『近代科学の源をたどる』10章

近代科学の源をたどる (科学史ライブラリー)

近代科学の源をたどる (科学史ライブラリー)

  • デイビッド・C・リンドバーグ『近代科学の源をたどる 先史時代から中世まで』高橋憲一訳、新倉書店、2011年、240–272ページ。

 西洋科学史の標準的な教科書から、13世紀の自然哲学の状況を論じた箇所を読みました。12世紀より本格的に開始された翻訳活動は、西洋の学者たちに巨大な情報源をもたらしました。そのうちの多くは神学的な問題を引き起こさないものであったものの、アリストテレスとその注釈者たちの著作はキリスト教の教義と相容れない学説を含んでいました。そのためパリ大学では1210年というアリストテレス流入して間もない時期にはじまり、15年、31年と、アリストテレス自然哲学の講義を禁止したり、彼の哲学のうちで宗教的に危険な部分を削除するようにとする命令が出ました。しかし40年代(あるいはその少し前)よりアリストテレスは学芸学部の講義科目となり、55年にはアリストテレスの著作講義を必修とする規約がパリ大学学芸学部で出されるにいたりました。

 アリストテレスの哲学はキリスト教の観点からすると危険な教説をいくつも含んでいました。それは宇宙の永遠性を唱え、神による世界の時間的創造を否定しているように思われました。アリストテレスの世界には奇跡の介入する余地がないように思え、これに占星術の理論が組み合わさると、人間の自由意志を否定する決定論に行き着く可能性がありました。また霊魂は身体の形相であるというアリストテレスの考えは、身体と独立の霊魂の存在を否定し、キリスト教の復活の教義と抵触するように思えました。最後にアヴェロエスの霊魂単一説は個別的霊魂の不滅性を要請する教義とこれまた相容れないものとされました。

 とはいえもはやアリストテレスを根絶することが不可能であるのは明らかでした。したがってどうやってキリスト教の世界のうちでアリストテレスを飼い慣らすかが学者たちの課題となります。アリストテレスキリスト教の調停は最初ロバート・グロステスト(1168年頃–1253年)のような人物によって担われ、ロジャー・ベイコン(1220年頃–1292年頃)によって拡張されました。やがてドミニコ会士のアルベルトゥス・マグヌス(1200年頃–1280年)とトマス・アクィナス(1224年頃–1274年)があらわれ、理性に最大限大きな役割を与えながら、アリストテレス哲学とキリスト教を両立させようと試みました。

 しかし同じころ学芸学部にはブラバンのシジュ(1240年頃–1284年)やダキアボエティウス(1270年頃に活躍)が、神学からの要請を一切考慮することなく哲学的思索を徹底させるということを行っていました。ボエティウスによれば哲学者が哲学者として思考するにあたっては、その説明に超自然的な原理を導入することは許されない。ゆえに哲学者は創造や復活の可能性を考察することができない。

 このような立論は神学部や教会当局からの警戒を招きます。1270年と77年にパリ司教エティエンヌ・タンピエは異端譴責を発令しました。そのうち77年の命令は今後支持することを禁じる219の命題を含む本格的なものでした。そこでは世界の永遠性や霊魂の単一性といったキリスト教の教義と抵触する学説の支持が禁じられています。また哲学的議論の効力を広範囲に、また深くおよぶものとしてとらえることも禁じられました。こうして哲学が神学から独立して思考の領域を確保する芽はつまれたのです。

 タンピエの禁令でとりわけ歴史的に大きな効果を及ぼしたのが、彼が神の全能性を制限する学説を禁じたことでした。アリストテレスが自然世界では実現不可能だと論じたことであっても、矛盾律に抵触しない限りは神には実現可能であると考えねばならないとされました。ここから1277年の禁令以降、神なら実現できる仮想的な状況を設定して、そこでアリストテレスの諸理論が妥当性を持つかどうかが検討されることとなりました。アリストテレスが設定した世界の枠組みを超えて、彼の学説を自由に検証することが行われたのです。

 さらに神の全能性の問題がクローズアップされたことは、神は全能であるのだから世界の秩序をいかようにも変えられるという観念を強めました。ここから世界の秩序は必然にではなく神の意志に依存するという考えが広く受けられるようになりました。ただしここから自然が神の気まぐれによるとみなされて、自然哲学が不可能になったと結論することはできません。多くの論者は神に絶対的な自由と能力が確保されているのは創造のときのみであり、その後の神の意志による介入は稀であると考えていました。また神の意志に世界の秩序がよるということが、その秩序を知るためには外界へ行って観察するしかないという結論を導き、経験的方法論への関心が高まったと考えることはできません。なぜならそのような傾向の変化を裏付ける証拠がないからです。体系的な実験プログラム出現の出自は神の全能性という神学教義とは別の場所に求められねばなりません。