イスラム神学の生成 井筒『イスラーム思想史』#1

イスラーム思想史 (中公文庫BIBLIO)

イスラーム思想史 (中公文庫BIBLIO)

 イスラムの思想についての古典的著作から第一部「イスラーム神学」の前半部を読みました。思弁と論理によってイスラム信仰における難問を解決しようとする運動のことを、カラーム(思弁神学、イスラム神学)と呼びます。このような運動は原初のイスラムには存在しませんでした。ムハンマドの『コーラン』には解消しがたい論理的矛盾があったものの、そのことが大きな問題となることはありませんでした。ムハンマドの存命中は問題が生じれば彼の意見を仰げばよかったわけですし、そもそもイスラムが生まれた地に住む砂漠の民の民族性にある感覚主義と個物主義は、首尾一貫した教義を求めるようなものではありませんでした。しかしムハンマドが没し、またイスラムギリシア思想が根づいていた地域を征服するにいたると、『コーラン』が教えるところを組織化する必要が生じます。

 このとき一つの焦点となったのが宿命の問題でした。『コーラン』にはすべての出来事は神の意志に由来するのだから、人間には自由意志はないという教えと、神の教えにしたがうか背くかは人間の自由意志によるという教えの両方が記されています。ここが教義上の分裂の起点となりました。たとえば人間の自由意志を否定するジャブル派、宿命を否定するカダル派が生まれました。カダル派によれば人間はおのれの行為を創造しているのだから、自由であるということになります。

 宿命と自由意志の問題に合理主義の立場から応答したのがムアタズィラ派でした。人間は自身の行為を創造する。この行為は理性的な基準により善であるか悪であるかに分けられる。神は悪を罰して、善に報いる。ここから正統派が認めていた「執り成し」の教義が否定されます。最後の審判のときにムハンマドが神に執り成すことで信徒がなした罪を軽くしてくれるという教義です。ムアタズィラ派によれば、おのれが創造した行為におうじて地獄の火に焼かれるという当然の報いから、予言者が信徒を救い出すことはありえないとなります。

 ムアタズィラ派の合理主義は神を人間的に考えることを排除するという特徴も持っていました。『コーラン』にある神を人間のように描く箇所は比喩的に解釈されなければならない[初期キリスト教における類似の教えについては、オリゲネスについての関連記事を参照]。神の本質とはその永遠性のみであり、その他の性質はすべてこの永遠性から派生する。したがって『コーラン』ですら神と共に永劫の昔からあったのではなく、他の被造物と同じく想像されたものとなります。「コーラン創造説」です。

 この極度な合理主義・理性主義への反発が即座に、しかもムアタズィラ派の内部から生じることになります。(続く)