ユスティノス、テルトゥリアヌス、クレメンスにおけるキリスト教と哲学 出村「護教論者における信仰と知の問題」

中世における信仰と知 (中世研究)

中世における信仰と知 (中世研究)

  • 出村みや子「護教論者における信仰と知の問題」上智大学中世思想研究所編『中世における信仰と知』知泉書院、2013年、5–30ページ。

 長年にわたって上智大学中世思想研究所の所長をつとめられてきたクラウス・リーゼンフーバー先生が上智大学を定年退職されるのを記念して編まれた論文集です。古代から初期近代(クザーヌス)にいたるまでの、キリスト教信仰と哲学との関係が論じられています。今日はその第1章を読みました。

 本論は初期キリスト教において信仰と哲学の関係がいかにとらえられていたかを、三人の思想家に焦点を当てて探るものである。ユスティノス(100年頃–165年頃)は、異教の哲学もキリスト教も同一のロゴスに与っていると考えた。このためキリスト以前の人物であってもロゴスに参与して生きたものはキリスト教徒とみなしうる。ただしそこでの知者たちのロゴス理解は部分的なものにとどまった。ロゴスの全体がはじめてもたらされたのは、あくまでキリスト(すなわちロゴス)の受肉を通じてである。この意味でキリスト教こそがロゴスの全体を把握した真の哲学である。ユスティノスがこのように哲学とキリスト教を接合したことの背景には、キリスト教会が無教養な下層民の集団であるという観念を払拭し、キリスト教を当時の知識人階級に受け入れやすくするという課題が当時の護教論の中心課題となっていたことがある。

 これに対してカルタゴで活動したテルトゥリアヌス(160年頃–220年頃)はキリスト教と哲学との対立と断絶を強調した。彼の時代にはキリスト教と古典的伝統の接合が進んだ結果、キリスト教を哲学の一種として批判する者たちが現れていた。この者たちに向かってテルトゥリアヌスは哲学とキリスト教との違いを際立たせたうえで、後者の前者に対する優越を説いた。彼が信仰を哲学から切り離そうとしたもうひとつの動機は、哲学者のように限りなく真理を探求する営みを信仰の場で行うことが、グノーシス主義の異端を生み出していると判断したからである。ここからテルトゥリアヌスは信仰が教える真理とは、哲学からくる理性的な認識では決して到達できないようなものに違いないと考えるにいたった。

 グノーシス主義の出現から理性主義への警戒心を強めていたキリスト教会において、哲学に一定の役割を確保しようとしたのがアレクサンドリアのクレメンス(150年頃–215年頃)である。クレメンスによればたしかに信仰の知恵以外のことを多くの時間を割いて学ぶべきではない。しかし哲学は信仰をソフィストの詭弁攻撃から防御することができる。このような限定的ではあるものの重要な哲学の役割は聖書のアレゴリー的解釈から導けるとクレメンスは考えた。彼の事例からは、高度な文献(解釈)学が発達していたアレクサンドリアにおいて、ユスティノスのものともテルトゥリアヌスのものとも違う、キリスト教と哲学の関係をめぐる考察が生まれていたことが見てとれる。

より短いまとめ

出村みや子「護教論者における信仰と知の問題」は、ユスティノス、テルトゥリアヌス、アレクサンドリアのクレメンスが三者三様に哲学とキリスト教との関係を定式化していたことから、彼らのそれぞれにそのような定式化を促した時代的・文化的背景を明らかにする。