知解における神への愛 出村「アウグスティヌスにおける信仰と知」

中世における信仰と知 (中世研究)

中世における信仰と知 (中世研究)

  • 出村和彦「アウグスティヌスにおける信仰と知 フィロソフィアの原義に立ち返って」上智大学中世思想研究所編『中世における信仰と知』知泉書院、2013年、51–75ページ。

 アウグスティヌスにとっての知解が神学的性格を有していたとする論考である。アウグスティヌスが「あたなが信じていなかったなら信じなさい。なぜなら、知解は信仰の報酬であるから」(63ページ)と論じたことはよく知られている。ここには信仰から知解ヘという順序が示されている。しかしここから信仰と知解を切り離してしまうなら、アウグスティヌスの意図を読み違えることになる。というのも彼にとって知解とは、人間が自らのうちにあるキリスト、すなわち神の知恵に頼ることによってはじめて可能となるからである。人間は神から無償で与えられたこの知恵を、(神の子の受肉にあらわれているへりくだりのさまにならって)謙虚に愛さねばならない。この愛としての信仰により内なる知恵と対話することが知解を可能とする。知解とは信仰と切り離された理性の営みではない。知解の営み自体が神への信仰を通じて成就されるのである。この信仰が知恵を愛することであるのだから、知解とはフィロソフィアの原義に忠実であることになる。

より短いまとめ

出村和彦「アウグスティヌスにおける信仰と知 フィロソフィアの原義に立ち返って」は、アウグスティヌスが知解すること(intelligere)を神学的営みと捉えていたことを示す。信仰のあとにくる知解は、人間が信仰から与えられた内なる神の知恵を愛し、それに相談することではじめて成就する。よって知解は単に順序的に信仰の次にくるのではなく、それ自体が信仰と不可分に結びついていると言える。