スタイルとテクニック ハッキング「歴史家にとっての「スタイル」…」

知の歴史学

知の歴史学

 本ブログでもいくどか述べてきたように、近年の科学史研究は「科学とはなんなのか」ということは問わずに、個別の事例において信頼に価するとされる知識がいかに生みだされるかを分析する。これにより科学の歴史とはそもそもなんの歴史なのか、というディシプリンとしてのアイデンティティが危機に瀕している。

 この状況で科学史家クロムビーは『ヨーロッパの伝統における科学的思考のスタイル[複数形]』を世に問うた。そこで目指されたのは、西洋の科学の特徴をその知識内容ではなく、その知識を見いだすときの方法にみることである。イアン・ハッキングのまとめによると、クロムビーは以下の六つのスタイルを抽出している。

(a) ギリシャの数理科学を模範とする、「仮定[公理・公準]をおく」という単純明快な方法。
(b) 仮定を制御し、その結果を観察と測定によって調査するための実験の実施。
(c) 直接測定できない対象のメカニズムをそれと類比的な模型を構成して解明する、仮説的モデリング
(d) 多様なものの比較と分類による秩序づけ。
(e) 集団の規則性についての統計的分析、および確率の計算。
(f) 対象の遺伝的な発展プロセスを、ある起源からの歴史的な派生として再構成する方法。(358–359ページ)

 このクロムビーの成果にハッキングはいくつかの分析をくわえる。スタイルはある時点で成立し、安定して存続するようになる。スタイルによって生みだされる知識の内容は変化しても、スタイル自体は比較的安定的だ。だがスタイルが変化しないわけではない。まずそれは消滅しうる。たとえばルネサンス期の寓意を用いた推論は死に絶えた。また複数のスタイルが融合することがある(たとえば幾何学が代数化されたとき)。この他にもスタイルにはこまかい修正がくわえられる。

 スタイルのおおきな特徴は、それがおおくの新奇物(novelties)を導入する点にある。たとえばタクソノミーによって生物を分類するようになると、生物種が導入され、その存在をめぐっての論争が起こる(種は実在するのか)。またあたらしいスタイルにより、これまでは考えられてこなかったような命題を思考することが可能となる。同時にその命題の真偽を判定する方法が導入される。

 スタイルにかんしてとりわけ哲学的な分析に値するのは、スタイルの自律性を担保するテクニックのあり方である。あるスタイルが生まれたり、消滅したりすることは、歴史の偶然的状況に依存するかもしれない。この過程を再構成するのは歴史家の仕事だ。哲学者がなすべきは、一度成立したスタイルが自律的に機能しはじめるとき、それがいかなる仕組みで安定性を獲得しているかを見きわめることである。

 このテクニックの内実をハッキングは詳述していない(彼の個別論文への参照を求めている)。しかし彼の記述から以下の二つのことを推測できる。まず導入された対象を単に記述するスタイルよりも、対象そのものを(実験などの)操作によって構成するスタイルのほうが、堅固で安定的な客観性の規準をつくりだす。操作性が安定化に寄与するテクニックとなるということではないか。第二に統計スタイルが安定化していることにみてとれるように、そのスタイルなしでは社会制度がまわらないと、スタイルは安定する。スタイル安定化のテクニックのうちには、「スタイルを社会の成立要件のうちに埋めこむ」というテクニックがあるということだろう。

 スタイルは科学に固有のものではない。さまざまな共同体がさまざまなスタイルを採用し、それぞれに独自の自己安定化のテクニックがある。これらさまざまなスタイルとその安定化の仕組を分析するのが哲学者の仕事となる。それにより他のさまざまなスタイルとの違いが浮かびあがることで、現代の科学を構成する諸々のスタイルの特質が判明し、それにより客観性なるものがいかに担保されているかをよりよく理解できる。

 ハッキングの議論とつきあわせて考えてみたいのは、科学史家ピーター・ディアの見解だ。ディアによれば、現代の科学を特徴づけるイデオロギーとは、「理解できるということ(intelligibility)」と「役に立つ;うまくいくこと(instrumentality)」が相補的に互いを支えあっているとき、自然に関する知識を科学とみなすという信念である。あるやり方での世界理解が正しいのは、それにしたがって自然に接するとうまくいく(適切に実験を制御できる、有用な成果をとりだせる)からである。ではなぜうまくいくのかといえば、その前提となる世界理解の方法が正しいからだ。このような循環構造があり、とりわけうまくいくことが正しく世界を理解していることをほぼ自動的に保証する点に、現代科学の特徴があるという。ここでのintelligibilityとinstrumentalityを、ハッキングのいうスタイルとテクニックと重ねあわせることはできるだろうか。

 すくなくともディアにしてもハッキングにしてもクロムビーにしても、科学なり信頼に値する客観的知識なりの成立条件を考察するにあたって、スタイルや「なにが理解できるか」といった理念上の選択を中心のひとつにおく点で立場を同じくしている。理念の妥当性をいかに保証するかが常に問題となり、この保証を確保するためにモノやヒトが動く。これが知識生産の場所を支配する力学である。ガリレオがみずからの「仮定」(彼が考えたような機械論的宇宙のうちで事物が落下している)が実験での結果と一致したことが「幸運」であったと述べたとき、彼はまさに自らの活動がintelligibilityとinstrumentalityの二つの支点を持つことを意識していた。あるいは彼が数学的証明が神の有する確実性にも匹敵するとのべたとき、彼は自らのテクニックがスタイルをいかに堅固に安定させうるかを理解していた。反対にアクターネットワーク理論や循環の理論のように、知識生産の場を無焦点化してしまう立場は、知識の形態相互の区別をつける基準を見失わせることなる(ある種の社会史もそうかもしれない)。すくなくともディアはこう考えていそうだ。上記の弁別力を確保し、「現代の歴史 history of the present」として科学の歴史を歴史学的・哲学的に分析する方法を確保しておくことは、私にも必要なことであるように思われる。

関連記事

メモ

なにがintelligibleとみなされるかは、なにがunintelligibleとみなされているかにきわめて強く規定されるはず。アリストテレスの宇宙というunintelligiblityにたいして、おおくのintelligibilityとinstrumentalityの対が提示され、そのうちの一つがガリレオの対であった。共通の敵の重要性については下記論文を見よ。