なめられっぱなしではいられない 『ユリイカ』クマ特集より

  • 伊藤博明「熊が舐める 成形と育成の伝承をめぐって」『ユリイカ』2013年9月号、130–141ページ。

 雑誌『ユリイカ』でクマ特集がくまれた。クマとは(というかクマの不在とは)因縁がないわけでもない私なので、これはもう買わないわけにはいかない。

 西欧文化史のうちでクマは面白い逸話と結びついていた。母熊は小熊を非常に未分化な状態で生むため、母は子をなめることでしかるべきかたちを与えるというのだ。小熊が未分化な状態で生まれるという観察は、アリストテレス『動物誌』に記されている。ここから一歩進んで母親がなめることでかたちを与えるという要素が加わるのは、ヘレニズム時代のようだ。

 この逸話というか観察はルネサンス期に自然誌が盛んになると迷信としてしりぞけられてしまう。しかし子をなめる母熊というシーンは、単なる自然の記述としては受けとられず、そこから類比によってさまざまな意味をとりだす文化的資源として長きにわたって機能しており、現代でもその片鱗がみられるという。たとえばキリスト教の文脈では、未分化で不完全な小熊は、原罪を犯した人間と重ねられた。これを母なる教会が母熊よろしくなめる。なめるというのは、洗礼という秘蹟のことだ。かたちを獲得していく子熊が進歩を意味すると解釈されることもあった。モンテーニュによれば学芸は母熊が子熊をなめることでじょじょに形成していくように成長していくものなのだから、学問は時代の進展とともに進歩していく。人間の文明の水準が古代を超えていくという近代の確信を表現するための器として、クマのエピソードが援用されているのだ。

 現代でもフランス語の「悪しくなめられた熊」という言葉は、粗野で無教養な人を比喩的に表現するとされる。なめられる熊の逸話は死に絶えたわけではないようだ。じっさい、この論考の最後にひかれるヴォーヴォワールの使い方なんてじつに傑作だと思いませんか?