17世紀前半における原子論・粒子論の経験的根拠 Meinel, "Early Seventeenth-Century Atomism

  • Christoph Meinel, "Early Seventeenth-Century Atomism: Theory, Epistemology, and the Insufficiency of Experiment," Isis 79 (1988): 68–103.

 初期近代には自然現象を粒子(原子)とその運動から説明する粒子論・原子論が広く支持を集めるようになった。この事態を解釈するにあたり科学史たちは、初期近代において原子論がいかなる経験的根拠を有していたかを問うことをおろそかにしてきた。原子の存在が最終的に認められたことを知っている歴史家たちは、その存在の妥当性が実験によって確かなものとなりはじめたのが19世紀であったことを忘れてしまっているわけである。そこで本論文は17世紀前半に原子論・粒子論を正当化するために提出された経験的根拠を検証する。その結果浮かびあがるのは、原子論・粒子論の経験的根拠は不十分にもかかわらず(あるいはそうであったからこそ)、粒子の存在をとりあえず自明視してその先の調査を行うことが主流となったという事態である。

 まず17世紀前半に原子の存在を主張するのはさまざまな意味で容易なことではなかったことを知らねばならない。1624年にJean BitaudとAntoine de Villon、およびその他2名のパリの学者が「すべては原子、すなわち不可分なものから構成」されているのであり、この説は「理性にも、真の哲学にも、物体の解剖学(corporum anatomia)」にも合致していると主張した。こうして彼らはアリストテレスパラケルススの学説を否定したのだった。この説は激しい既存の権威から激しい反発をまねく。教えは禁じられ、それを広めようとするものは死罪に処すとされた。興味深いのは、ここでBitaudたちが原子論を「物体の解剖学」、すなわち化学的分析により証明できると主張していることだ。対照的に一世代あとのボイルになると、粒子の存在は前提とされるばかりで、それが実験によって証明されることはない。この違いには後に立ち返ることになる。

 古代原子論の知識は、アリストテレスによる反論や、ギリシア医学文書によって伝えられていた。またアヴェロエス主義の伝統のうちでは、自然の最小者(minima naturalia)の理論が16世紀に発達し、自然現象の粒子論的理解にみちをひらいている。しかしこのミニマはメカニカルなものではないので、そのままでは粒子論にはいたらない。そこで別の諸ファクターの寄与が必要となる。1417年にはルクレティウスの『事物の本性について』が発見され、1473年にはじめて印刷にかけられた。1470年にはディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』(最後2巻でレウキッポス、デモクリトス、レウキッポスが扱われている)がラテン語訳された。人文主義者にして医師のフラカストロは1545年に物理的・化学的現象を原子論的に説明している。ヘロンの『空気力学』(原子論の情報を多く含む)も16世紀後半にラテン語・俗語に訳され多数印刷された。これらの外部的要因とともにアリストテレス主義内部でも、生成変化を説明するときに、その素材(の形相)の存続を想定するアヴィセンナの学説が、アリストテレス主義者の医学者に好まれるようになった。さらには唯名論の影響を受けたDavid Gorlaeusは、オッカムの剃刀をふるって、真に実在するものは完全なる個物、すなわち原子だけだと主張するにいたった。最後にルネサンスに入り、学問の中心からは外れたところにいる実践的活動に従事する人物たちの影響が高まりはじめる。このうち冶金や錬金術にたずさわる人々が、原子論・粒子論に重要な経験的根拠を提供することになる。

 原子論の根拠には認識論的なものがあった。一つは物質の構造とじっさいに私たちが感じる日常世界のあり方の関係をめぐるものだ。厳格な意味での機械論的な原子論は、日常世界を説明することに失敗するため、経験を重視する人々を惹きつけなかった。そこで与えられたひとつの極端な解決策がClaude Gillermet de Bérigardによるものである。彼はすべての質に対応する原子があると考えた。これに対してより広く採られたのは、厳密な機械論とBérigardのあいだをいくものだ。四元素の性質を持つ原子があり、その組み合わせにより日常世界がつくられているというのである(バッソ、ゼンネルト、ユンギウス)。もう一つの認識論的根拠は、原子のような究極的な基礎が自然にあり、かつそれが確定されないかぎりは自然にかんする確かな知識というものは成り立たないという前提である(ブルーノ、バッソ、ユンギウス)。この他に原子論をめぐる数学的な議論があったものの、これは経験を重視する人々にはあまり考慮されることはなかった。

 原子論の経験的根拠は大きくわけて6つあった。一つはマクロな次元で起きることがらから、原子の存在を想定するというものである。たとえばルクレティウスに依拠して、小さな昆虫にも臓器があり、そこから微小な粒子の存在を想定させるレトリックが用いられた。他にも紙を液体アルコールが通過することが微小な粒子の存在の証拠とされたりした(ゼンネルト)。マグネンの段階になると、(アルキメデスの『砂の計算者』にならって)物体中の粒子の数を定量的にあらわす試みがはじまった。しかしたとえばガッサンディのように、アルキメデスの数学的手法を自然学の領域に適用することの不適切さを指摘し、定量化の危うさに警鐘を鳴らす者もいた。マグネンが原子論の経験的根拠として持ちだしたのはパリンゲネシスの事例であった(情報をガファレルから採っている)。パラケルスス主義者のあいだで問題となっていたことが、原子の存在の根拠となっていたわけだ。

 二つ目の経験的根拠は顕微鏡による拡大だ。ガッサンディはこの発明がいつか原子を見ることを可能にするかもしれないと述べた。ヘンリー・パワーになると、顕微鏡により原子が見えるようになったとまで述べるようになった。彼はいつの日か磁石からでている磁力的流出物も見えるようになるだろうとしている。ハイモアによる磁力的流出物を見たという報告に接したパワーは、もしそれが事実なら磁力の正体は物質となり、逍遙学派と原子論哲学者とのあいだの論争は後者の勝利に終わるだろうと述べた。

 第三番目の経験的根拠は目に見えないほどの物質の移動がたしかに自然界で起きていることからとられた。たとえば目には見えなくても継続してしたたる水滴は岩を削っている。ここから自然には目には見えない物質の単位があると考えられるとするのだ。これは厳密にいえば原子の存在の根拠とはなりえない。しかしこの種の現象をいきいきと描きだしたルクレティウスの詩の効果とあいまって、原子論の信ぴょう性を高めることには寄与した。

 四番目の経験的根拠は濃密化と希薄化、およびそれらの現象を説明するために要請された真空の問題からとられた。たとえば水に通常の塩を加えたあとにミョウバンを加えると、液体の体積は増えずにしかし塩をくわえていないとの同じだけの量のミョウバンを溶かすことができる。これをガッサンディは水のうちには特定の物体の粒子(この場合、通常の塩とミョウバン)を受け入れる真空の隙間があるとみなした(こうして粒子の存在と真空の存在が同時に肯定される)。ガリレオは密着させた二つの平面がなかなか離れないことを自然が真空を嫌う証拠とみなし、そこから独自の数学的原子論を構想した。同じ物体が濃密になることで小さくなり、希薄になることで大きくなることは、アリストテレスの理論では説明が簡単であったものの、原子論をとる場合、真空の存在をはっきり認めないかぎり説明困難であった。そこで何らかのエーテル、精気、空気が粒子のあいだにはいり、これらの出入りによって圧縮や拡張が起こると説明された。しかしこれは原子論・粒子論の一貫性を弱めることに他ならなかった。いずれにせよ初期近代においては真空を拒否しながら、原子論・粒子論を支持することが可能であった。

 五つ目の経験的根拠は光を粒子とみなすと現象が説明できるというところからとられた。もっともめざましい例はデカルトの光の理論だ。しかし全般的には17世紀の原子論において光を根拠にした議論が大きな役割を果たすことはなかった。これが粒子論の強力な根拠となるのはニュートンの『光学』が出て以後の18世紀のことである。

 六番目の経験的根拠は化学の領域からとられた。化学現象を純粋な機械的要因、とりわけ位置運動だけから説明することは困難であった。そこでエーテル、精気、共感・反感、粒子に働きかける形相の存在が想定された。ここで重要なのはゼンネルトである。彼は原子が集合してあたらしい加工物を形づくるメカニズムはわからないと認めた。しかし彼はそれでもすべての化合物はそれを構成している素材へと分解可能だと考え、この最終的な素材を原子とみなした。これにより、化学的反応過程のメカニズム自体はブラックボックスに入れながら、化学実験により抽出できるか否かにより物質の粒子の存在を論じることができるようになった。原子や粒子を論じる次元を存在的な水準から操作的な水準に移行させたのである。化学現象のうちでとりわけ粒子論・原子論の強力な根拠となるとみなされたのが、「元の状態への還元」という現象である。Angulus Salaは王水によって溶かされた金が銀によって析出するという事例から、液体中でも原子レベルに分解された金が残存していると結論づけた。この事例を体系的に活用して原子論を正当化したのがゼンネルトである。

 このような17世紀前半の化学による粒子論・原子論の正当化と、ロバート・ボイルによる粒子論は、同じ実験的基礎を持っていたとはいえ、大きく性格を異にしていた。17世紀前半において粒子論に実験的根拠を与えようとする試みは、無機物を用いた化学実験にとどまっていた。ゼンネルトは生命について論じているものの、その役割は小さい。一方17世紀後半にロバート・ボイルは有機物を使った実験をおこなっている。しかもそこで彼が示そうとしたのは、質的変化が粒子の配置の変化によって引き起こされるということであり、粒子の存在を証明することではなかった。それは自明視されている。「元の状態への還元」すらも粒子の存在証明ではなく、質が機械論的なプロセスによって生じることを証明するために行われていた。彼の機械論的粒子論では、その経験的根拠の範囲が拡大し、同時に粒子の存在はとうぜんの前提とされている。

 以上からわかるように、17世紀の前半にあった原子論の経験的根拠はけっして強いものではなかった。化学実験に依拠したものがもっとも説得的ではあったものの、それとて決定的ではなかった。化学的アプローチの特徴はそれが実践的な性質をもつことであった。この特徴が以後の粒子論・原子論の展開に大きな意味を持つことになる。ボイルによる機械論哲学の提唱にもかかわらず、化学の領域で成功をおさめたのはじつは機械論哲学ではなく、そのプラグマティックで、事物の究極的な構成要素に深くコミットしない姿勢であった。なんであれ、とにかく化学者が扱うような性質を持った基礎的な粒子があると考え、その粒子の性質とそれらのあいだの親和性に関心を集中させるということが、ボイル以後の18世紀の化学では行われることになる。それにともない粒子の存在論的、認識論的な地位は議論の対象から外れていった。

 粒子論・原子論は経験的・実験的根拠を欠きながらも、経験を重視する人々によって数十年の論争を経るだけで急速に受けいれられていった。その理由はいまだ明らかではない。いずれにせよ原子論の隆盛を単純に実験の重視の帰結としてとらえるのは間違いだろう。原子論・粒子論の受容は単一の原因から論じることはできない。それを支持する議論も、それを広めようとするレトリックも、認識論的、数学的、経験的といったさまざまな水準で同時に提示されていた。これにさらに神学的、形而上学的水準を加えることができるだろう。それらさまざまな議論の水準のあいだにある相互依存性や、それらの水準各々が有する特質とそれらが招いた帰結をさらに探求せねばならない。