科学史とホイッグ史観 Alvargonzález, "Is the History of Science Essentially Whiggish?"

 「それはホイッグ史観ですね」と科学史家に言うのは、ネズミをドラえもんに投げつけるようなものである。といえるかはともかく、著者がいうように科学史家にとってホイッグ史観というのは一種のスティグマとなっている。過去の自然探究の営みを、現在の科学的知見の出現へ寄与したかどうかで評価することによって歴史家の認識が歪む。これを避け、過去の出来事をその時代の文脈において理解せねばならない。この指針は科学史学において一つのドグマとなっている。

 だが近年では、いやホイッグ史観批判には真実が多分に含まれているけど、行き過ぎもおかしいんじゃね?という声が高まっている。この論文はそのような近年の声を総花的に拾い上げたものだ(特に新しいことは書かれていない)。いわく、過去の人物の行為や彼らが巻き込まれた状況を、その人物がまだ認知していなかった知見を用いてより深めることができる(e.g. 黒死病はペストであった)。また科学史家の仕事は過去を再構成するだけでなく、その結果を現代の科学的知見を有する同時代人にいまの言葉で伝えることだ。この意味で現在と切り離された過去の自然探究の再構成はありえない。そもそもバビロニア占星術が興味深いのは、そこに科学的真実が見いだされるからではないか。真実への価値判断抜きにバビロニア占星術を探求することは、それを当時の歴史的文脈に還元することとなり、最終的には単なる忘却につながるだろう。現代とのつながりを見ないことは、歴史研究の出発点である問いがそもそも現代における関心に規定されていることを忘れている。

 ホイッグ史観批判は歴史のうちに目的を見ることへの批判であった。プロテスタントの出現を現代のイングランドという結果にいたる進歩の過程とみてはならないというのだ。だが技術においては明白に、科学においても多分に進歩は存在する。この進歩という大きなフレームを使わずに、ミクロなレベルでの歴史探究に専念していいのだろうか。ホイッグ史観を批判したバターフィールドがいみじくも述べているように、もし「歴史がその複雑性と細部のすべてにわたって語られるようなことがあれば、それが私たちに提供するのは混沌のうちにある不可解なもの、つまるところこの人生(life)のようなものとなるだろう」。そこではおよそ解釈し、意味づけることが不可能となってしまう。科学的進歩という大きなスケールを枠組とする歴史記述は、歴史研究を現在と結びついた意味あるものとするためにも捨てられるべきではないのだ。

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ウィッグ史観批判―現代歴史学の反省 (1967年)

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