異教の一神との対峙 Funkenstein, Theology and the Scientific Imagination, ch. 3, #1

Theology and the Scientific Imagination from the Middle Ages to the Seventeenth Century

Theology and the Scientific Imagination from the Middle Ages to the Seventeenth Century

  • Amos Funkenstein, Theology and the Scientific Imagination from the Middle Ages to the Seventeenth Century (Princeton, NJ: Princeton University Press, 1986), 117–127.

 『神学と科学的想像力』から第3章「神の全能性と自然の法[自然法則]」をまとめていく。ここで主題となるのが、すでにここで何度もとりあげてきた神の絶対的力と秩序付けられた力の区別である。著者によれば神の絶対的力の観念から導かれた、今現実にはない世界のあり方を構想する可能性が、17世紀の新科学の成立に寄与したのだという。このテーゼを正当化するため、まずは古代から中世にかけて神の意志と善性、ないしは神の意志と世界にある秩序の関係という問題がいかに論じられてきたかが検討される。

 古代世界における一神教ユダヤ教キリスト教だけであり、他の異教の信仰や思想は多神の観念に基づいていたという考えは、中世に由来する誤りである。古代哲学のうちには一人(というより一柱)の神の観念を洗練させていく大きな動向があった。クセノファネス、アリストテレスストア派プロティノスを見ればそれはあきらかである。ここから古代におけるユダヤ教キリスト教への攻撃の主な照準がその一神信仰に合わせられていなかったことも理解される。批判はむしろユダヤキリスト教の神の性質に向けられていた。ギリシア人にとって神とは普遍的秩序の源泉として不変であり、また外部を必要としない自己充足的存在でなければならなかった。一方ユダヤキリスト教の神はどうだろうか。人間の歴史に介入するばかりか、ある民族を別の民族に優先させるということすら行っている。キリスト教の救済の教義によれば、神はいまある秩序をその意志によって変更するという。このように自足的でなく、不変性を恣意によって侵す存在が神であるはずがない。このような批判が向けられた。教父オリゲネスは神の全能性を確保しながら、それがあるべき秩序に背いた行為を意志するはずがないとしながら次のように述べた。「神の力に関しては正しいことであろうと不正なことであるとすべてが可能である。一方神の正義に関してはすべてが可能なわけではない」。神の意志と世界にあるべき秩序の関係という主題は、深められることこそなかったとはいえ、すでに古代において登場していたことがわかる。