神学による霊魂論の解体 Thomson, "Animals, Humans, Machines and Thinking Matter"

 デカルトの哲学によれば、動物は機械である。この議論が拡張され、人間すら機械であるとみなし、霊魂の不死性を否定するラ・メトリのような論者が現れた。しばしば哲学史ではこのように語られる。だが本論文によれば、人間霊魂をめぐる17世紀後半の議論はより複雑であった。しかもその議論は自然哲学と神学だけでなく医学とも密接に絡みあっていた。そこで議論の一つの焦点として浮上したのが動物霊魂である。伝統的なアリストテレス主義や、ケンブリッジプラトン主義者たちの見解によれば、動物の活動は非物質的な霊魂が司っている。だがベールが鋭く指摘したように、この立場からすると非物質的であるという点で動物の霊魂と人間の霊魂は同じであり、それゆえ動物霊魂も不死であるという結論がでてしまう。よってデカルトのように、動物から一切の非物質性を剥ぎとって単なる機械とみなすのが、信仰にもかなった立場となる。だが動物をまったくの機械とみなしていいのか。その活動が物質によって司られているとはいっても、やはり動物は感覚を有するのではないか。ここから動物の活動は非常に微細な物質である精気(spirit)の作用の産物であるという立場が現れる。精気が感覚を生みだしているのだ。この立場をつきつめると、物質であってもその組み合わせられ方次第では感覚のような作用を持ちうるという考えにいたる。さらに進めると、そもそも物質自体のうちに考える作用すら帰せるのではないか。このような帰結をリチャード・ベントリーは批判した。「[神の]全能そのものであっても思考する物体(cogitative body)を創造することはできない。これは神の力の不完全性ではまったくなく、基体[つまり物体]のうちに[思考を受けいれる]能力がないからである。物質と思考の観念は絶対的に両立不能である」。本当にそうか?このように神の全能性を制限するのは冒瀆ではないか。微細な精気の作用が感覚だけでなく思考も生みだすように、神は世界を創造できるのではないか。よって動物と人間の活動を司るもののあいだに本質的差はない。復活と最後の審判の教義は決して霊魂の不死性を要求していない。霊魂の不死性はプラトン主義からキリスト教にもたらされた教義であり、教皇権と司祭制度を強化するために利用されているにすぎない。神学的動機に駆動された議論が、霊魂論の解体に至ったのである。

 以上から分かるように、17世紀後半のイングランドにおいて、人間霊魂をめぐる議論は錯綜をきわめていた。論者の多くは人間霊魂の本質を動物霊魂との同質性や異質性から論じていた。動物霊魂は物質的なものか。ここで物質的なものとしたときに浮上したのが、その物質自体に思考する力があるかという問題であった。これにイエスと答えるところから、人間も動物も物質であるというもっともラディカルな回答が提示される。これは18世紀にラ・メトリやディドロが唱えることになる学説であり、17世紀のイングランドにおいてそれを支持したのはいわゆるメカニカル・フィロソフィーではなく、一部のキリスト教神学なのであった。

図像出典

トマス・ウィリスの著作に描かれた脳。ウィリスは動物の活動を化学的に生成された精気に帰し、その生成が脳で起こると考えた。Wellcome Images(L0018951)。