中世宗教改革期の多様な信仰生活 Constable, The Reformation of the Twelfth Century, ch. 2

Reformation Twelfth Century

Reformation Twelfth Century

  • Giles Constable, The Reformation of the Twelfth Century (Cambridge: Cambridge University Press, 1996), ch. 2.

 コンスタブル『12世紀の改革』の第2章である。11世紀から12世紀にかけて生じた宗教上の改革運動のなかで、いかにさまざまな種類の信仰生活があったかを論じている。著者によれば、この時期の信仰に起きた最大の変化は、信仰形態の多様化とその容認であった。同時代人がしばしば表明していたように、寒さと飢餓の時代が終わったことにより、人口が増大し、そこから多くの種類の信仰生活が花開いた。その最たるものが独自の特徴を有する修道会と参事会の増加であった。長時間の典礼と世俗との密な関係を特徴とするクリュニー修道制から、短時間の典礼とより少ない俗世との接触を目指す新たな修道制が生まれた。修道誓願を行い、修道制の規則にしがたいながら、なお聖職者としてとどまる律修参事会員が登場した[律修参事会員の定義には自信がない。いずれにせよ修道士と律修参事会員の区別はどう時代にあってすら、しばしばむつかしかった]。

 この他に隠修士とか隠者とかいわれる人々がいた。なるべく外部とのかかわりを断って、たとえば一人森のなかで生きようとする人々である。このような人々は時に賞賛され、ときに痛烈に批判されていた。いずれにせよ、11世紀、12世紀にはこの種の人々の数が増加し、社会での存在感を増した。有力者の助言者にこのような隠者がしばしばみられる。

 この時期の宗教改革運動の重要な担い手は女性である。女性を受けいれる(あるいは女性に特化した)施設の数は増加し、修道女の総数も増えた。先の隠修士にも多くの女性がいた。女性の聖人の数も激増した。この時期の男性の宗教指導者はしばしば女性に対して開かれた態度をとっていた。男女の霊的な意味での対等性が強調され、女性に特有とされた徳が称揚される。ドイツに新しくできたクリュニー系の修道制は女性の修道士を多く迎えていた。とはいえ12世紀の後半より、女性を排除する動きが強まる。女性が住まう施設は男性のそれから遠く隔離されることがおこり、世紀末には女性は多くの修道院や修道会から追放される。こうして女性が信仰生活の正統な領域から排除されていったことが、ベギン運動の背景をなしていた。

 修道制が世俗に対して開かれていた回路には、騎士修道会と助修士(conversus)があった。これらの身分は世俗(あるいは世俗に近い)立場から、聖職者や修道士が行うことができない業務を補佐する役割を担った。助修士は宗教的服装を身にまとい主に農作業に従事していた。さらに教会や修道制は世俗から与えられる寄進や、その見返りに聖職身分が与える霊的であったりときに物質的であったりするサービスの交換によっても、俗界と結びついていた。

 歴史家は中世の宗教生活を、高度に組織化された修道制や参事会員制度を中心にすえてかたり、隠修士や助修士騎士修道会を周縁に配しがちである。だがおそらくこの時代の信仰生活に接近するにより有効なのは、これら様々な信仰生活の形態が容認された上で、当時の個々の信仰者にたいして開かれていたということである。