凡庸な精神のためのスコラ学 デカルト『方法序説』

方法序説ほか (中公クラシックス)

方法序説ほか (中公クラシックス)

 デカルトの『方法序説』である。とくに私が紹介する必要はないだろう。要約の必要もない。なにしろデカルト本人が簡潔きわまりない要旨を冒頭に掲げてくれているのだから。だから個人的雑感を書きしるすと、ひさしぶりに読むと以前読んだときとは違う印象をおぼえるものだ。たとえば伝統から決別し、旅をしたり孤独のうちに思索にふけるデカルトをみて高校時代ならそこにかっこよさをみていたけど、いまとなると「こいつまじ働かなくても食っていけるんだな」と思ってみたり。

 いやそれは本質的ではなかった。今回メモすべきと思ったのは、デカルトによるスコラ学批判だ。デカルトがスコラのアリストテレス主義者たちを強く批判したのはあまりに有名でそれ自体について私がつけくわえるべき点はない。問題はその批判の仕方にある。『方法序説』の第6部を見てみよう。

彼ら[スコラ学者]の哲学研究のやり方は、きわめて凡庸な精神しかもたぬ人々にとっては、きわめて好都合なのである。なぜなら、自分が用いる区別や原理の不明瞭さのおかげで、彼らは何ごとでも知らぬことがないかのように大胆に語ることができ、もっと鋭い有能な人々を向こうにまわしてでも、みずからの全主張を固執することができ、しかもいい負かされる心配がないのである。この点で、彼らのすることは、盲人が目明きに対等の条件で打ちかかるために、相手を真暗な洞穴の奥につれこむのに似ていると私には思われる。

 生半可な知能の持ち主にも何かひとかどのことを言った気にさせる点で、学校の哲学はじつに学校向きだというわけだ。あんまりといえばあんまりだ。だがこの批判、生半可な学識しかもたぬ説教師の存在に着目した赤江雄一の論文(「語的一致と葛藤する説教理論家」『知のミクロコスモス』)と妙に通じあっている。中世の説教教育の場においても、大学での哲学・神学教育の場においても、歴史に明確に記録されるのは当代一流の学識者たちの思考だ。だが持続する制度としての教育が照準をあわせ、チューンアップしていたのは、一流ではまったくない「きわめて凡庸な精神しかもたぬ人々」(J・ヴェルジェがいうところの「中間的知識人」)であったのではないか。デカルトのスコラ学批判はつねにフェアであったわけではない。しかしその批判はいまでは見えにくくなってしまった中世学識文化の実態を正確にとらえていたと思われる。

関連論文

  • 赤江雄一「語的一致と葛藤する説教理論家 中世後期の説教における聖書の引用」ヒロ・ヒライ、小澤実編『知のミクロコスモス 中世・ルネサンスのインテレクチュアル・ヒストリー』中央公論新社、2014年、14–41ページ。