医学教授デカルト? Manning, “Descartes and the Bologna Affair"

 膨大なデカルト研究がほとんど触れない出来事がデカルトの生涯にあった。1632年末、ないしは1633年初頭に彼をボローニャ大学の理論医学の教授として招聘しようという計画があったのである。この計画の顛末の紹介が本論文の目的である。

 デカルトの書簡は、彼が1629年以降医学に関心を寄せていたことを教えてくれる。1629年12月18日にはメルセンヌに解剖学を学んでいると書き送っている。30年1月には病気にかかっていたメルセンヌにたいし、疑いようのない証明に基づいた医学の体系を自分が発見するまで、体調に気を使ってくれという書簡を送っている。『世界論』の執筆開始後の32年12月には、またもやメルセンヌにたいし、消化、心臓の鼓動、栄養の分配、五感といった身体機能について書いたと伝えている。さらに「さまざまな動物の頭を解剖している」し、ウィリアム・ハーヴィの『心臓の運動について』も読んだという。この医学への関心は一過性のものではなかった。37年の『方法序説』では次のように言われている。「医学に対して今までの規則よりも確かな規則を与えるような、ある種の自然認識を得ようとつとめることにのみ、私は私の余生を用いようと決心していること」。
 このような29年から33年にかけてのデカルトの医学研究はこの時期には公刊されなかった。しかしそれでも彼の研究は知られていないではなかったようである。それをうかがわせるのが、彼のボローニャ大学への招聘計画である。当時同大学の法学教授であるAndrea Torelliが、長らく空席であった同大学の理論医学教授のポストの適任者を探してフランスを訪れていた。彼からの手紙が1633年3月14日にボローニャの議会で読まれた。それによるとTorelliは当初モンペリエの医学教授であったGeorge Sharpeを招聘することを考えていた。しかしこの人物はパドヴァ大学からも招聘を受けていることを知る。あきらめたTorelliはパリに赴く。同地には教皇庁から派遣されていたNuncio Cevaという人物がいた。TorelliはCevaとともにルネ・デカルトボローニャのポストにつかないか説得するつもりであるという。
 医学部教授を探してパリを訪れたTorelliにCevaがデカルトを推薦したということである。それ以上のことは何もわからない。Cevaは誰を通じてデカルトのことを知ったのか。どうしてCevaが教授招聘問題にかかわることになったのか。どうしてCevaはデカルトを推薦したのか。そしてこの二人はデカルトにコンタクトをとるところまでいったのだろうか。これらのことは分からない。この計画に触れたデカルトの書簡も残されていない。分かっているのはこの計画の帰結だけである。結局、(当初のお目当てであった)Scharpeが教授職を受けたことにより、Torelliの使命は果たされた。デカルトボローニャの教授にならなかったし、以後もいかなる大学の職につくこともなかった。
 この知られざる出来事から何がわかるだろうか。まず自然学と医学の境界線は非常に薄かったことがわかる。デカルトは自然学の探究からスムーズに医学の研究に進んでいる。またすくなくとも同時代の幾人かの人物が、デカルトをして一流の大学の医学部教授樽にふさわしい人物と考えたことは、デカルト自然学における医学的関心の重みを軽くみつもる従来のヒストリオグラフィに疑問をつきつけるかもしれない。

 (あんな北のほうでなく、ボローニャのような暖かいところにいけたら、デカルトはもっと長生きできただろうか?)