ルネサンスにおける史的アリストテレスへの回帰 Martin, Subverting Aristotle, ch. 3

Subverting Aristotle: Religion, History, and Philosophy in Early Modern Science

Subverting Aristotle: Religion, History, and Philosophy in Early Modern Science

  • Craig Martin, Subverting Aristotle: Religion, History and Philosophy in Early Modern Science (Baltimore: Johns Hopkins University Press, 2014), 51-69.

 ポンポナッツィにいたるまでのルネサンスアリストテレス主義の流れを追った章である。議論の基本は、当時のイタリアのアリストテレス主義者たちが、人文主義の影響を受けて、歴史的により正確なアリストテレス理解に達しようとしていたという事実におかれる。たとえば1440年に書かれた手紙のうちでLauro Quiriniは、夢にアリストテレスがあらわれ、テオフラストス、アフロディシアスのアレクサンドロスアヴェロエスを自らの忠実な継承者として語ったと述べている。たいしてテミスティオスやシンプリキオスといった人々は、プラトン主義によってアリストテレスの哲学を汚染してしてしまった人とされる。またQuiriniは信仰とアリストテレス哲学を両立させる試みにも反対する。アリストテレスアリストテレスとして読まれねばならない。

 Quiriniの見解にあらわれているように、正確なアリストテレス解釈への欲求はアヴェロエスへの評価を高めた。ギリシア語への回帰が起こり、ギリシア人注釈家が重要視されるようになっても、アヴェロエスへの依存はとまらなかった。むしろアヴェロエスが広く注釈家の著作を利用していることから、彼の信頼度が上がりさえした。たとえばアゴスティノ・ニフォはアヴェロエスはテミスティオスに忠実にしたがっており、それゆえ価値があると考えた。ジローラモ・ドナートにとっても、アヴェロエスアレクサンドロス、テミスティオス、シンプリキオスにしたがっており、正確なアリストテレス解釈を期待できる著者であった(ギリシア人注釈家によるプラトンの教義のアリストテレスへの持ちこみを、Quiriniのように警戒する者は多くなかった)。アヴェロエスは信仰をアリストテレスに読みこんで、その哲学をゆがませる試みをしていない点でも評価に値するとドナートは考えた。

 こうしてアリストテレスを字義通りに解釈する機運が高まると、やがてアリストテレスの哲学はカトリックの教義と一致しないと公言する哲学者たちがあらわれるようになった。パドヴァ大学で教えたニコレット・ヴェルニアや(初期の)アゴスティノ・ニフォがそうである。彼らはアヴェロエスが正しくアリストテレスを解釈していると考えた。アリストテレスアヴェロエスも感覚から出発して哲学をした。そのため啓示から得られる認識には到達できなかった。彼らはこの点であやまった。このようにヴェルニアやニフォは考えた。パドヴァの外では主としてボローニャ大学で教えたアレッサンドロ・アキッリーニがやはりアリストテレスアヴェロエスの一致を説いた。彼によればアリストテレスは確かに間違ったが、それは彼が信仰を知らなかったからであり、「自然哲学の点では、アリストテレスは間違っているようには見えない」。

 このような状況に危惧を抱いた人々がいた。パドヴァの司教バロッツィや、パドヴァ大学のアントニオ・トロンベッタ、そしてアウグスティヌス修士会のヴィテルボのGilesといった人々は、大学でキリスト教の教義に反する教えが公然と教えられているのを防ごうとした。その結果のひとつが第五回ラテラノ公会議における命令である。1513年に出されたその布告は、哲学者たちに霊魂の不死性などを可能な限り理性的な議論によって証明するよう求めていた。しかしこの命令は大学教育の実態にたいして大きな影響を及ぼさなかった。

 事実ピエトロ・ポンポナッツィは命令のあとに『霊魂不死論』(1516年)を出版している。ポンポナッツィはその初期の講義においては、アリストテレスにとって人間霊魂は不滅であり、これはアヴェロエスの学説と等しいと論じていた(ただし彼らの見解は真理ではない)。また自然に関することだけを考えれば、理性的霊魂は物質的であり、それゆえ滅びるというアレクサンドロスの学説が正しいかもしれないと論じていた(しかしこれはまたもや真理ではない)。ここからポンポナッツィはアクィナスを批判する。アリストテレスのうちに信仰との一致を見いだそうとするのは間違いだというのだ。出版された『霊魂不滅論』では解釈が変化した。アヴェロエスの解釈はしりぞけられ、むしろアレクサンドロスこそがアリストテレスを正しく解釈したと考えられるようになった。

 このポンポナッツィの結論は批判を招いた。しかしボローニャ大学は彼を1518年に高額の報酬でもって招聘する。この大学は1507年の段階で修道会の教員は、形而上学、神学、倫理学以外を教えないように求めていた。もし大学が神学者にあふれかえっているとわかれば、世俗の人々が来なくなってしまうと恐れてのことであった。ポンポナッツィにはまた異端の嫌疑もかけられたものの、詳しい経緯は不明ながら、1519年には嫌疑を免れることとなった。

 ポンポナッツィの真意をはかるのは困難である。彼はもしかして神学的には許容しがたい見解こそ真理であると考えていたのかもしれない。あるいは彼は教義が教えることを信じながら、誤りであるところのアリストテレスの教えを忠実に再構成しようとしていたのかもしれない。いずれにせよ彼は神学とは独立にアリストテレスの正確な見解を知ろうとする当時のイタリアのアリストテレス主義者たちの立場を共有していた。この立場には制度的背景もあった。パドヴァボローニャの学生たちの多くは哲学をおさめたあとに医学と法学を学ぶ者たちであり、そのような場所で哲学を神学に従属するものととらえる必要はなかったのである。