イエズス会によるアクィナスの支持とアヴェロエスの排除 Martin, Subverting Aristotle, ch. 5

Subverting Aristotle: Religion, History, and Philosophy in Early Modern Science

Subverting Aristotle: Religion, History, and Philosophy in Early Modern Science

  • Craig Martin, Subverting Aristotle: Religion, History, and Philosophy in Early Modern Science (Baltimore: Johns Hopkins University Press, 2014), 86-92.

 ルネサンスアリストテレス主義の最新の概説書から、イエズス会士を扱った節を読んだ。ここもまたアヴェロエスを軸に論じている。

 イタリアの自然哲学者がアヴェロエスを礼賛し、宗教改革が信仰するなか、カトリック教会は1542年よりトレント公会議を開催し、哲学がいかに教えられるべきかを統制しようとしていた。この時期にイエズス会が結成される。パリのドミニコ会で教育をうけたイグナティウス・ロヨラは、会士たちに神学において聖書とトマス・アクィナスにしたがうことを求めた。ここからイエズス会はアクィナスを基本にアリストテレス哲学と信仰の調和をはかっていくことになる。彼らは教育の場に、アリストテレス解釈上の対立を持ち込むことを嫌った。異端的教えが広まることにより、会士が倫理的に堕落してしまうのを恐れたのである。1564年から65年にかけてコレジオ・ロマーノでの哲学教育のための指示をJacobus Ledesmaが著している。そこでLedesmaは教師たちがスコラ学者たちがアクィナスの意見に異をとなえていると教えるべきではないとしている。またアヴェロエスをたたえてもいけないし、アヴェロエス主義者や、その他ギリシアやアラビアの学派が、ラテン世界の神学者たちと対立していると教えるのも控えるようにしている。そのような異論は教えるにしても、そこに重要性をこめずに無関心をよそおって講義すべきだというのだ。とりわけ霊魂の不滅性は信仰が教える疑問の余地のない学説として教授せねばならない。この点に関して、イエズス会士たちは第五回ラテラノ公会議で出だされた命令を遵守することを強調した。アリストテレス解釈における不一致を極小化し、信仰を支えるアリストテレス哲学を会士に学ばせねばならないというわけだ。

 ドイツのPeter Canisiusは1567年にミュンヘンイエズス会のなかにアヴェロエスを教えている者がいるとし、彼らを非難した。Caniusによれば彼らはアヴェロエスを「神的な」とまで呼んでいるという。これは誇張であったかもしれないものの、イエズス会のうちにアヴェロエスを高く評価する人物がいたのは確かである。ベネト・ペレイラは1564年に執筆したコレジオ・ロマーノでの教育指導要綱で、アヴェロエスの追随者を読まねばならないとしている。テミスティオス、Francesco Vimercati, John of Jandun, Walter Burley, Paul of venice、アゴスティノ・ニフォの名があげられている。ペレイラによればアヴェロエスは彼がイタリアで得ている名声とならんで、その学説上も有用なのだという。ペレイラのこの立場は反発を招いた。1576年と77年にひらかれた委員会にて、ペレイラはあまりにアヴェロエスにしたがいすぎているという判断がくだされた。これを受けてペレイラは1579年の著作で立場を修正している。そこで彼はアヴェロエスを悪しざまに非難する者にも組さないが、アヴェロエスを褒め称える陣営にもつかないという。アヴェロエスの持つ限界を見すえて適切に用いるという立場をとった。ペレイラの態度偏向は、イエズス会の内部でアヴェロエスは危険であるという立場が固まっていったことの反映である。

 事実その後のイエズス会の学院での教育方針を記した文書をみると、以下の傾向が引き続き守れているのがわかる。アヴェロエスを讃えないこと、アヴェロエスの逸脱に従わないこと、信仰と衝突するアリストテレス解釈を教えないこと、哲学の特定の学派に組さないことである。これは哲学的な議論を宗教的正統性を確証するために用いるように命じたラテラノ公会議の命令と一致するところであるという。こうしてイエズス会アリストテレスが実際に何を教えていたかという問題を脇において、宗教と調和する形での哲学教育を進展させようとしたのであった。アリストテレスの真意を宗教的含意と切り離して探ろうとするポンポナッツィの姿勢は、トレント公会議後のカトリック圏では、1520年代にそうであったよりもいっそう危険な営みとみなされるようになっていた。