デカルトの循環 山田「デカルト『省察』の研究・4」

 有名なデカルト的循環について学ぶ。デカルトは普遍的懐疑を行う。その結果、私の存在を確信する。ここから彼は一つの規則を引きだす。

次に私は、一般に一つの命題が真で確実であるために必要な条件を考察した。というのは、真で確実だと私の知る一つの命題をいま見いだしたのであるから、その確実性が何において成立するかをも、やはり知りうるはずだと考えたのである。そして、「私は考える、ゆえに私はある」という命題において、私が真理を言明していることを私に確信させるものは、考えるためには存在せねばならないということをきわめて明晰に私が見るということより以外に、まったく何もない、ということを認めたから、私は、「われわれがきわめて明晰に判明に理解するところものはすべて真である」ということを、一般的規則として認めてよいと考えた。

 こうして命題が真と認めるための規則が定められた。この規則を使ってデカルトは神の存在証明に向かう。証明後次のように言う。

さきに私が規則として定めたこと、すなわちわれわれがきわめて明晰に判明に理解するところのものはすべて真であるということすらも、神があり現存するということ、神が完全な存在者であること、および、われわれのうちにあるすべては神に由来していること、のゆえにのみ、確実なのである。(以上『方法序説』第4部、中公クラシックス版より)

 明晰判明に理解されるものは真だという規則は神の存在を前提にすると言われている。ところが神の存在証明は明晰判明に理解されるものは真であるという規則を使って行われたのであった。「pという命題[神は存在する]を証明するためにqという事態[明晰判明に理解されるものは真である]を要請しておきながら、q[明晰判明は真]の証明にp[神は存在する]を使っているのである」(山田論文、2ページ)。これがデカルトの循環である。

 山田論文は、デカルトは神の存在証明に際してじつは「明晰判明は真」という規則を使っていないと論じることで、循環は解消されると論じている。