ストア派の自然主義的ファンタジー Holmes, "Greco-Roman Ethics"

 古代世界は自然主義的誤謬とは無縁であった。というのも、それを誤謬とみなすどころか、ほぼすべての論者が自然に従って生きることは倫理的に善いことだとみなしていたからである。ただしそのみなし方は一様ではなかった。一方では、宇宙とは偶然、必然、自然法則によって支配されているという自然観があった。この無目的的な自然のうちには人間の本性も含まれる。こうして自然は所与のものとみなされ、そこから規範的意義は剥奪される。人間は定義上自然にかなったようにしか生きない。しかしそれ自体に倫理的意味はない。これがエピクロスの立場であった。しかしこの自然観には倫理的な意味があった。宇宙は神のような統御者によっておさめられていないのだから、私たち人間は神などを恐れることなく、安らかに生きるのが善いという結論が導かれるのである。

 他方古代には自然のうちに神の摂理をみてとり、それにしたがって生きることを善しとする考えが強固に存在した。なかでもストア派は、規範として目標とすべき自然という考えと、物理的所与としての自然のあり方という考えを完全に調和させようとした点で特異であった。著者はこれを「自然主義的ファンタジー」と呼ぶ。物質主義をとるストア派はすべての出来事は物質の作用により決定づけられているという立場をとっていた。動物の場合、自己を保存するために生きるよう決定づけられている。この自己保存の衝動にしたがいながら生きる点で動物はつねに自然にかなって生きている(所与としての自然)。しかし動物は自然の操り人形のように生きているわけではない。自然は動物に対して、生存のためにある環境のなかで何を選び、何を避けるべきかを判断する能力を生得的に備えさせている。この能力(これは自然誌の成果から確認できる)を駆使することで、動物は自己保存という決定づけられた生き方を達成できる(規範としての自然)。動物の場合、この所与と規範の調和はつねに成立している。しかし人間の場合は、この調和は容易には達成されないとストア派は考えていた。自然的衝迫を最高度に高められた理性が統御することで、この調和は達成されるとストア派は考えていた。しかしその調和により正確にどのような状態が達成されるかについては、それをうかがうための十分な証拠は残されていない。

メモ

 とはいえ動物に備わっている能力も、物質の作用に還元されるわけだから、すべてはやっぱり所与としての自然の効果となるのではないのか。このような決定論ストア派がいかに対処したかという点については多くの研究がある。