スピノザ形而上学の発展 Melamed, "A Glimpse into Spinoza's Metaphysical Laboratory"

  • Yitzhak Y. Melamed, "A Glimpse into Spinoza's Metaphysical Laboratory: The Development of the Concept of Substance and Attribute," in The Young Spinoza: A Metaphysician in the Making, ed. Melamed (Oxford: Oxford University Press, 2015), 272–86.

 私たちは『エチカ』にあらわれる実体、属性、神の定義を、スピノザ哲学の核心として、固定されたものと考えがちである。だが、これら三つの概念の理解をスピノザが変化させていたことが、『エチカ』の初期の草稿や、他のスピノザの著作を検討するとあきらかになる。

 スピノザが1661年にオルデンバーグに宛てた書簡(書簡2)を見てみよう。そこでは『エチカ』の草稿をもちいたと思われる箇所がある。そこでスピノザは属性を次のように定義する。「私が属性を、それ自身によってまたそれ自身において考えられるいっさいのものと解していること、従ってそうした物の概念は他の物の概念を含まないということ…」。この定義は『エチカ』の最終版で実体に与えられるものである。一方書簡では実体について次のように述べられる。「すべての実体は自己の類において無限で最高完全である」。これは『エチカ』最終版で属性に帰属させられる性質である。以上からわかるとおり、1661年でのスピノザの実体と属性の理解は、『エチカ』最終版の理解と正反対のものとなっている。

 一ヶ月後に書かれた書簡4では、実体について『エチカ』最終版に近い定義がみられる。「私は実体をそれ自身によってまたそれ自身において考えられるもの、換言すればその概念が他物の概念を含まないものと解し…」。その直後に属性が定義される。「私は属性を、その概念が他物の概念を含まないものと規定した」。まったく同じ言葉がもちいられていることからも分かるとおり、この時期のスピノザは実体と属性を区別することなく語っていたようである。すると、どちらか片方はいらなくなるのではないか。

 実際その疑念を裏打ちするような書簡が存在する。1666年に書かれたと思われる書簡36でスピノザは神と延長・思惟を論じている。この書簡には、属性という単語が現れない。 神が「絶対に無限定的且つ完全」であり、思惟と延長は「自己の類においてのみ無限定且つ完全」とされるのみである。どうやらこの段階でスピノザは、属性という概念の使用を一時棚上げにしたようなのだ。

 次にスピノザの他の著作を見てみよう。スピノザの最初期の著作と思われる『知性改善論』には実体と属性はほぼあらわれない。実体にもっとも近い術語は「創造されない事物」である(§97)。創造されない事物にスピノザが与えている定義の一部は、後の『エチカ』でも採用される。一方属性に近い術語は「確固・永遠なる事物」である(§101)。

 『神学・政治論』では属性という単語は、神の本質的属性、という意味ではなくて、人々が不十分なかたちで人間に類比させて神を理解するときに神に帰する属性という意味で使われている。逆にスピノザ哲学にとって本来的な意味での属性は、情態 affectio と呼ばれている。もしかすると『神学・政治論』執筆時に、スピノザは延長や思惟を正確にどう理解すべきかについて迷いがあったのかもしれない。

 『デカルトの哲学原理』での実体の定義はほぼデカルトにならったものである。一方属性はほぼ論じられていない。同書に付された『形而上学思想』には次のようにある。

私がここで情態 affectio といっているのは、デカルトが「哲学原理」第一部五十二節で別に属性 attributum と称したところのもののことだということである。思うに、有は有である限りそれ自身では、つまり実体としては、我々を刺戟することがない。そこで有は或る属性を通して、しかも有そのものとただ理性的見地からのみ区別される属性を通して説明されねばならぬ。

 ここで実体の情態は、実体から理性的見地から個別される属性である。一方『エチカ』では、情態は実体から modally に区別される様態とされる。この時点でのスピノザは『エチカ』で展開されるような様態理論をまだ持ちあわせていなかったようだ。

 『短論文』で神は次のように定義される。「神とは、我々の見解に依れば、一切が帰される実有、換言すれば、各々が自己の類に於いて無限に完全であるところの無限数の属性が帰される実有である」。続いて実体の満たすべき条件が列挙される。これはデカルトの実体の概念を否定するためであったと思われる。デカルトによれば有限なる実体が複数神によって想像されており、その存在は必然的ではない。これにたいしてスピノザの実体は単一であり、無限であり、そして必然的に存在する。

 さらに第7章には次のようにある。

さて我々は既に属性(或いは他の人々の名づけるところに依れば実体)は事物であることを見た。もっと正確に、もっと適常に表現すれば、それは自分自身に依って存在する一実有[の構成物]、従って自分自身に依って自分自身を認識せしめ自分自身を示現するものであることを見た。

 属性は、通常実体と呼ばれているものだという[著者は触れていないものの、スピノザ本来の属性が実体と通常呼ばれているという言明は、スピノザが書簡2で属性に本来的に与えられるべき定義を実体に与えることと関係するのかもしれない]。誰が呼んでいるのかと言えばデカルト主義者であり、そのときに指示されているのは思惟と延長である。よって次のように言われる。

無限の延長と無限の思惟並びに他の無限の諸属性(お前流に言えば諸実体)は唯一で永遠で無限で自分自身に依って存在する実有の様態にほかならないと結論するのだ。そしてこれらすべての様態から、先に言ったように我々は、それ自らのほかには何物も考えれ得ない唯一者乃至統一体を構成するのだ。

 ここでスピノザは延長と思惟を属性とも様態とも呼んでいる。この同一視は後のスピノザによって拒否される。

 この区別がつけられて、属性が実体と強く結びつけられ、それゆえ必然的に存在するものとなる一方で、属性は必然的存在ではなく、それゆえ実体・属性と区別されるようになるのは、おそらくスピノザが『短論文』2章fの注を付け加えたときであった(邦訳70ページ)。ここに私たちは、実体と属性の接近という書簡4でみられれた傾向をみてとる。

 以上から分かる通り、スピノザは神、実体、属性の関係について、さまざまな見解をさまざまな場所で提示している。これはおそらく、デカルト流のひとつの実体にはひとつの属性という理解と、スピノザが採用したい無限の数の属性をそなえた神という考え方を調停する必要があったからだと思われる。