化け物としての三位一体論 ペリカン「三一教義の否認」

  • J・ペリカンキリスト教の伝統 教理発展の歴史 第4巻 教会と教義の改革(1300–1700年)』鈴木浩訳、教文館、2007年、462–473ページ。

 キリスト教教義史の標準的教科書から、「三一教義の否認」と題された節を読む。ルター派カルヴァン派は「聖書のみ」sola scriptura の原理をとなえた。しかし彼らはいぜんとして、ニケーアやカルケドンの信条にある三位一体の教義の正統性は認めていた。これにたいして聖書のみの原理を徹底させて、三位一体の教義を否定するユニテリアン派があらわれる。セルヴェトスとブランドラータにはじまり、ソッツィーニとソッツィーニ派に続く伝統である。ソッツィーニ派の基本的な教義は『ラコウ信仰問答』にまとめられた(ポーランド語版1605年、ラテン語版1680年)。

 ソッツィーニ派が標的としたのは、贖罪の教義である。この教義はアンセルムスが定式化した充足 satisfaction の理論によって基礎づけられていた。人間の罪によって傷つけられた神の正義は、キリストの死によって充足されるという理論である。しかしこの理論はソッツィーニによれば、罪をゆるすためには神は充足を必要とすると考える点で、神の力、善性、憐れみを過小評価していた。よって正義の充足のためにキリストが死ぬことが必要であったと考えるべきではない。むしろキリストはその死と復活により、神の人間にたいする愛をしめしたとするべきである。

 このように論じると、キリストの位格をめぐる教義にも変更が加えられる。キリストが神の子であるのは、彼が神の子であるからこそ、その死が傷つけられた神の正義を充足できるからであった。しかしもはや充足は必要ない。となればキリストが神の子である必要もない。こうして三位一体の教義が否定される。三一の神という考えはセルヴェトスによれば「三つの実在の化け物」であり、ソッツィーニによれば「単なる人間的な虚構」であった。彼らの主張の根拠は、その教義を正当化する聖書上の根拠もみいだせないという点におかれていた。ここからユニテリアン派は、伝統的に三位一体の教義を支持すると考えられてきた聖書の箇所の解釈を再検討していくことになる。

 以上からわかるように、反三位一体の教えは、伝統的なキリスト教の教えに反旗を翻したものの、聖書の権威や信仰におけるキリストの必要性には疑義をとなえなかった。