ライプニッツの実践的神学 Strickland, Leibniz on God and Religion

Leibniz on God and Religion: A Reader

Leibniz on God and Religion: A Reader

  • Lloyd Strickland, trans. and ed., Leibniz on God and Religion (London: Bloomsbury, 2016), 1–11.

 ライプニッツの神学に関する文章をあつめたアンソロジーが出たので、その序文を読む。

 ライプニッツは神学に強い関心を寄せていた。その関心は実践的なものだった。彼は宗教こそが、人間のありかたを改善する手段となると考えていたのである。そのため彼はおもに三つの神学的探求を行った。ひとつは『カトリック論証』という未完の著作の構想にこめられたもので、キリスト教カトリックの主要教義が理性的なものであるとしめすことで、キリスト教をすべての理性的存在に受け入れ可能なものにすることであった。ここで論述の基礎をカトリックにとったライプニッツはじつはルター派であった。ここからわかるように、彼はカトリックプロテスタントの差異はおおきくなく、ふたつは合同可能だと考えていた。この合同運動への関与が彼のふたつめの神学的活動である。最後のひとつは、楽天主義(optimism)の提唱であった。

 これらの活動は彼の実践的な目的をもっていた。まず教会の合同は、宗教対立を収束させ、平和をもたらすはずであった。またライプニッツは、中国の古代宗教と純粋な形態のキリスト教の類似性を指摘することで、人類全体が宗教的に統一される可能性も考えていた。さらに理性的にキリスト教を弁証することは、無神論を駆逐し、万人に神への愛へ目を開かせる可能性がある。神への愛は死後の永遠の生を保証するのだから、これもまた実践的な意味をもっていた。同時にライプニッツの試みは、現世的な価値も持っていた。この世界は最善であり、神の正義がたしかに実現されていると確信することにより、私たちは来世以前にこの世で幸福に生きることができる。以上からわかるように、ライプニッツにとって神学は、人間集団間に平和をもたらすだけでなく、個人に現世と来世の両方で平安をもたらすものなのだった。

 だがではライプニッツの宗教上の見解はとなると、それをあきらかにするのは容易ではない。それは彼が状況におうじて自分がかならずしも個人的に支持していない教義も論証しようとするからである(たとえば同じ身体による復活の教義)。論証により得られる(いわば公的な)利益を、個人の信条に優先させるのである。この意味でライプニッツの信念は特定の神学的教義にあったというよりも、宗教がはたすことができ、またはたすべきであるよき役割への確信にあったといえるだろう。