神の霊と哲学の自由 福岡『国家・教会・自由』第7章

国家・教会・自由―スピノザとホッブズの旧約テクスト解釈を巡る対抗

国家・教会・自由―スピノザとホッブズの旧約テクスト解釈を巡る対抗

 表題通りのことが論じられた書物から、ホッブズスピノザによる霊(spiritus)の解釈を扱った箇所を読む。ホッブズによれば霊には三つの意味がある。空気、幻覚、そしてその他の比喩的な意味だ。この主張によって、聖書が非物体的実体を認めていた可能性が排除される。しかしこの結論には難点があった。新約聖書には非物体的な実体として天使が登場するとしか読めない箇所があるのだ。この事態を前にしてホッブズは、聖書に私たちの理解を超えることが書かれている場合は、それにはただ従うしかないと結論づけている。
 スピノザもまた霊が空気や、想像や、比喩的なことがらを指すとする。しかし彼にはホッブズにはない論点があった。霊の用法のうちに、ヘブライ人が神を擬人化したために生じたものがあるとするのだ。彼らは理解力の弱さのために、自分たちに了解できる範囲で神をとらえた。そこから霊という単語のいくつかの用法が生まれたのだ。
 これはスピノザの「適応」の理論と対応していた。啓示は受け手である預言者が理解可能なかたちで与えられる。ここから聖書のすべてを真実ととらえるべきではないという結論がみちびかれる。たとえば預言者たちは天文学について深い理解をもっていたわけではない。よって彼らの理解にあわせて与えられた啓示が、かならずしも天について正確な内容を伝えているとはかぎらない。
 むしろ啓示から読みとるべきは、その目的に不可欠のことのみである。それは神への服従であり、それによって隣人を愛するようになることである。これに関係するかぎりのことがらが聖書では尊重されねばならない。それ以外のことがらについては、自由な思索が認められねばならない。この峻別をせず、聖書から引き出すべきもの以上のものを得ようとすることから、正典をめぐる対立が起き、宗派対立が生じ、平和が乱される。
 だがこの峻別は完全な断絶を意味しない。隣人愛に人をうながす最低限の条件さえ満たしていれば、人はどのように神を理解してもかまわない。いや各人が己の納得いくかたちで理解してこそ服従は可能となる。とすると神について学問的に究めた哲学者も、啓示を納得のいくかたちで了解し、そうして神に従うのが望ましい。著者は明言していないが、ここに『神学・政治論』と『エチカ』の関係を理解するヒントがあるように思える。