18世紀、ドイツ、大学の衰退 Turner, "Prussian Universities," #2

  • Steven Turner, "The Prussian Universities and the Research Imperative, 1806 to 1848" (Ph.D., diss., Princeton University, 1973), 20–86.

 中世以来、ドイツの大学はパリ大学をモデルにして設立されていた。しかしパリと大きく異なり、世俗的な性格を強くもっていた。多くの大学が世俗権力の主導により設立されていた。

 宗教改革により16世紀に大きな変化が起こる。まずメランヒトンを中心とする教育改革運動が波及した。これによりカトリック系の大学よりプロテスタント系の大学が知的に優位な立場に立つという状況が生まれる。また領邦君主が自前の大学を大量に設立しはじめた。支配地域で必要となる聖職者をはじめとする人材を、領域内で育成するためだ。こうして大学は発展していた。

 だが18世紀には衰退局面にはいったのがあきらかであった。入学者数は1720年で4400人だったが、1790年には3400人であり、1800年には2900人になった。ただですくなくなって行く大学を数多くの大学がとりあっていた。プロテスタント系・カトリック系の大学が二重に存在しているのも状況の悪化に拍車をかけた。

 哲学部の衰退が深刻だった。上級学部で学ぶための準備機関という役割は、より以前の教育機関に奪われ、多くの学生が哲学部を経由せずに上級学部に入学する用になった。1750年以降ハレとイェーナで哲学部に入学する学生はいなかった。ゲッティンゲンでも665人の入学者のうち、60人だけが哲学部だった。給料も下がった。哲学部の教員が年100から175ターレルを受給したのにたいして、神学部、法学部、医学部はそれぞれ、338から557、200から500、100から200ターレルを受給していた。しかも上級学部の教員と違って哲学部の教員は外部で稼ぐ手段もかぎられていた。哲学部の衰退は、大学が数学、科学、歴史学の分野での発展を吸収できないことを意味した。この点は批判された。

 結局のところカネがなかった。入学者も減少していたにもかかわらず、新たな設備投資は行わないといけないのに、政府から投下されるカネの額は増えなかった。

 大学への批判が行われた。批判者には啓蒙主義に共鳴する者たち、大学ではなく貴族学校に子弟を通わせはじめた貴族たちがいた。それにともない大学に代わる新しい学術機関が台頭してきた。アカデミーが代表例である。1760年以降は批判が激化し、大学の廃止を唱えるものすら現れた。ペスタロッツィや敬虔主義の新しい教育理念が広い支持をあつめた。

 大学のイメージをなによりも傷つけていたのは学生が行う暴力行為であった。またラテン語の暗記への重点をより現代的な対象に移すべきだと強く主張された。「大学教育は教師だけがしゃべる一方通行(Alleinsprechen)で、口頭でやり取りするソクラテス・メソッド(ein mündlicher (socratischer) Unterricht)がないからダメ」(大意)と言われた。

 18世紀後半以降に現れた文芸運動も、美的感覚とウィットを重んじる立場から、大学の硬直的な知のあり方を批判した。とりわけ Gelehrsamkeit という言葉で言い表された、知識の量、ラテン語での優雅な表現を重んじる立場が批判の対象となった。それはレッシングの Der junge Gelehrte (1748) によく現れている。同族登用はとりわけ厳しい批判にさらされた。教授職が一族によって世襲されることがあったのだ。大学の教員になりたければ、娘と結婚しろという皮肉が書かれた。

 国家の大学への関与はおおきくなかった。プロイセンは基本的に大学に対して無関心であった。これは前記の批判が大学への信頼を失わせていたからだとこれまで解釈されてきた。なるほどそれはそうだろう。しかしそれだけではない。むしろ無関心は従来の政策の延長なのだ。伝統的に領邦君主たちは、大学とは領域内で聖職者をはじめとする人材を養成するための機関だった。彼らが大学に期待したのは人材を他の領域に流出させないことだった(だからときとして領内の学生が行ける大学を制限しようとした)。これらの目的を達成する限りで、プロイセン政府は大学に介入した。それゆえ抜本的な改革を望まなかったのである。