18世紀、ドイツ、大学の改革 Turner, "Prussian Universities," #3

  • Steven Turner, "The Prussian Universities and the Research Imperative, 1806 to 1848" (Ph.D., diss., Princeton University, 1973), 87–119.

 18世紀はドイツの大学の衰退期だと言われてきた。しかしそれと同時に改革が行われた時代とも言われている。この両側面をバランスよく論じなければならない。

 1694年にハレ大学が創設された。ライプツィヒから学生をプロイセン領内に呼び戻すためであった。だがハレは教育内容も独自だった。貴族学校の影響を受け、世俗的、実践的な学問が重視された。自然法、ヴォルフの哲学、新科学などである。

 ハレには重要な三人の教授がいた。クリスティアン・トマジウス、アウグスト・ヘルマン・フランケ、そしてクリスティアン・ヴォルフだ。トマジウスはドイツでの講義に先鞭をつけた。フランケは敬虔主義を大学に導入した。彼の弟子の J. Rombach はイェーナとギーセンに最初の教育学の講義を導入した。ここからドイツに教育学のポストが広まっていく。ヴォルフは1720年までにすべてを演繹的に導きだす体系を完成させていた。1750年にはヴォルフ主義はスコラ学を大学から駆逐してしまった。

 ハレの改革はすばやく波及していった。各地の大学に敬虔主義、俗語の使用、そして自然法、合理論的な哲学、国政術に関する講義が広まっていった。こうして大学は啓蒙主義の思潮に見合った内容の教育を提供するようになった。

 しかしハレの改革は大学への批判を鎮めることはできなかった。カリキュラムの改革だけでは学生の粗暴な行動を抑制できなかった。またカリキュラムにしても、歴史やフランス・ドイツ文学が教えられず、古典語の教育は旧態依然としたものという欠陥が残っていた。敬虔主義とヴォルフ主義も固着化した体系になってしまった。1750年以降、ハレ大学の名声は低下することになる。

 ゲッティンゲン大学は1737年に創設された。この大学は伝統的な大学の最も成功した姿を体現した。域外から多数の生徒を集め、とりわけ貴族が集う大学として名声を高めた。成功はなによりも有能な教員の採用にあった。人事は徹底的にハノーファー王国によって管理されていた。

 ゲッティンゲンで発展した学問のうちとりわけ重要だったのが古典文献学だった。ヨハン・アウグスト・エルネスティとヨハン・マティアス・ゲスナーがとなえた新人文主義は、文法とスタイルに重点をおく従来の古典語学習を、文学的・美学的なものに変革する必要性を唱えた。それによって古代の精神を身につけるべきだというのだ。ゲスナーの後継として、ゲッティンゲンではクリスティアン・ゴットロープ・ハイネが古典学を教授した。すぐれた教育者として多くの学者を育て、ドイツの古典古代学隆盛の基礎を築いた(Altertumswiffenschaft)。ハイネは文献学に美学的で、倫理的な側面を含めたため、これまで文献学で軽視されていたギリシア研究(これは文学運動の方でむしろ重要視されていた)をとりこむことができた。

 ゲッティンゲンは貴族色が強かったこともあり、学生の粗暴な行動を比較的抑制できた。また人事が厳格に国家の管理に置かれたので縁故主義も蔓延しなかった。

 とはいえゲッティンゲンの成功はその規模によって支えられており、多くのドイツの大学にとってそのまま模倣できるものではなかった。また伝統的な大学では、ゲッティンゲンのように自由に制度をデザインしたり、国家による直接の管理を実現するのは難しかった。