『ピカトリクス』邦訳のわずかばかりの検証

ピカトリクス―中世星辰魔術集成

ピカトリクス―中世星辰魔術集成

  • 『ピカトリクス 中世星辰魔術集成』大橋喜之訳、八坂書房、2017年。

 ラテン語訳からつくられた日本語訳である。その第1章の最初の2文について、訳文を検討した。ラテン語は難解であり、私の理解が及ばないところも多い。しかしそれでも、いくつかの箇所については、邦訳の問題点を指摘できると考えた。

 ラテン語の本文は以下からとった。これは、邦訳が底本としているものである。

  • David Pingree, ed., Picatrix: The Latin Version of the Ghāyat al-ḥakīm (London: Warburg Institute, 1986).

 第1章の最初の2文をまず抜粋する(3ページより)。

Scias, o frater carissime, quod maius donum et nobilius quod Deus hominibus huius mundi dederit est scire quia per scire habetur noticia de rebus antiquis et que sunt cause omnium rerum huius mundi et que cause magis propinque sunt causis aliarum rerum et qualiter una res cum alia convenienciam habet, et propter hoc sciuntur omnia que sunt et qualiter sunt, et qualiter una res post aliam in ordine elevatur, et in quo loco ille qui est radix et principium omnium huius mundi rerum existit, et per eum omnia dissolvuntur, et per ipsum omnia nova et vetera sciuntur. Ipse enim est in veritate primus, et nihil in eo deficit nec aliquo alio indiget cum ipse sui ipsius et aliarum rerum sit causa, nec ab alia recipit qualitates.

 この箇所の邦訳は、次のようになっている(7ページより)。

親しき兄弟よ、神がこの世の人々に授けたまうた高貴にして最大の賜は知るということに尽きる。知ることにより古のものごとに関する知見が得られ、この世のあらゆる事物の原因が知られる。また偶因の多くは他の事物によるものであることが。いかにしてある事物は他と共通するものをもつのか。まさにここからあらゆる存在物とその性質が知られ、いかにある事物は他よりも高い段階にあるか、それらがある場所こそがこの世に存する万物の礎であり端緒原理であること、またそこにすべては解消されていくことが、また古今のすべてが知られる。それ(知ること)こそがじつに第一の真実であり、それには何の欠如もなく、それ自身以外になにか他のものを必要とすることも、他の事物を原因とするのでもなく、他の諸性質を受けとるのでもない。

 以下の部分に関しては、訳文に再考の余地があると思われる。

「それらがある場所こそがこの世に存する万物の礎であり端緒原理である」in quo loco ille qui est radix et principium omnium huius mundi rerum existit

ここは、関係代名詞節を省略すると、次のようになる。

in quo loco ille existit

これを直訳すると、「その場所にそれ(その者)は存在する」になる。間接疑問文だとすると、「どの場所にそれが存在するのか」になる。どちらの解釈をとるにしても、「それらがある場所こそがこの世に存する万物の礎であり端緒原理である」とは、ならないのではないか。

「またそこにすべては解消されていく」per eum omnia dissolvuntur

これも直訳すると、「それによってすべては解消される」になる。per の前置詞節を「そこに」と訳せるかは疑問である。また邦訳は eum は、locum であると解釈している。しかし、これはむしろ少し前にある ille を受けているのでないか。「この世に存する万物の礎であり端緒原理であるそれ」(ille qui est radix et principium omnium huius mundi rerum)である。これは、神を指すのだろう。

「それ(知ること)こそがじつに第一の真実であり」Ipse enim est in veritate primus

邦訳は ipse が、知ること(scire)を受けると解釈している。しかし、ipse という男性名詞が受けているのは、前文の ille ではないだろうか。ille は神であり、神が「第一の真実であり、それには何の欠如もなく…」というのは、自然である。

「他の諸性質を受けとるのでもない」nec ab alia recipit qualitates

「他の」が諸性質にかかると解釈されている。しかし、alia は ab alia [causa] として、causa にかかっていると考えるべきである。したがって、「他の原因から諸性質を受けとるのでもない」と訳すべきである。