マレシウスとコクツェーウス Eberhardt, Christoph Wittich, "Die Auseinandersetzung mit Samuel Maresius" #3

 

 

  • Kai-Ole Eberhardt, Christoph Wittich (1625-1687): reformierte Theologie unter dem Einfluss von René Descartes (Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 2018), 268–271.

 マレシウスがデカルト主義に敵対的となった第二の理由は、ヨハンネス・コクツェーウスとの関係の悪化があった。コクツェーウスの神学は、当時デカルト主義と親しいととらえられていた。二人の関係は当初は良好なものだった。互いに著作を送りあっていたし、書簡も交わしていた。マレシウスは著作のなかでコクツェーウスに言及もしていた(ただし、その学説を詳細に検討しているわけではない)。コクツェーウスが1650年にライデン大学の教授に任命されたことで、そのポストに就きたかったマレシウス都の関係は冷え込んだものの決裂したわけではなかった。

 しかし、1663年に二人のあいだで論争が起こる。コクツェーウスの学生が行った討論にたいしてマレシウスが攻撃したのである。これにコクツェーウスが反論を送ることになる。その反論書をマレシウスは大学の講義で検証し、65年にはコクツェーウスにたいしてソッツィーニ派に接近しているのではないかと警告を与えた。決裂が決定的なものとなったのは、マレシウスが1668年にグローニンゲン大学の同僚であるヤコブス・アルティングと衝突して以後のことだった。アルティングはトビアスアンドレアエの学生であり、コクツェーウス・デカルト主義者であった。アルティングはコクツェーウスを引きながら、千年王国的な見解を擁護し、マレシウスはそれを批判した。論争は最終的に、ライデン大学の神学部に助言を求めることで、収められた。意見を求められたライデンのコクツェーウスとヘイダーヌスは、アルティング寄りの裁定を下し、マレシウスには自重が求められた。これに憤慨したマレシウスは、コクツェーウスへの批判を再開することになる。その際には、アルティングがまさにそうであったように、コクツェーウスの神学はデカルト主義とセットとみなされたのだった。

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