つくり手とファンの交渉から生まれるなにか ジェンキンズ『コンヴァージェンス・カルチャー』

 

  • ヘンリー・ジェンキンズ『コンヴァージェンス・カルチャー ファンとメディアがつくる参加型文化』渡部宏樹、北村紗衣、阿部康人訳、晶文社、2021年、21– 59ページ。 

 編集者の方と訳者のさえぼうに送ってもらったので、早速イントロダクションを読んだ。私の予備知識量では話が追いにくいところもあり、理解できたか心もとない。ただ読みっぱなしにすると分かりそうな点もあやふやな理解にとどまり、そのまま忘却の彼方に消えてしまうので、私がポイントだと考えた点を、以下にノートとして残しておく。

 一昔前(大昔かもしれない…)、メディアミックスという言葉がよく使われた。一つのコンテンツが数多くのメディアを通じて発信される事態を指していたように思う。それに近いものとして、本書の「コンバージェンス」という用語をおさえると、まずは分かりやすそうだ。

 ただ、どうも二つの言葉のニュアンスには違いがあるようにも思える。私の印象では、メディアミックスというときには、主導するのはコンテンツのつくり手側だという響きがあった。つくり手が多様なメディアを結びつける。そうして展開されるメディアミックスをオーディエンスが受け止める。このような能動と受動の役割分担が前提となっていた。

 それに対して本書ではコンバージェンスという言葉で、オーディエンスの能動性を強調している。よく考えてみるならば、メディアミックスが成り立つためには、オーディエンスが数多くのメディアを渡り歩いて、コンテンツを消費することが期待できなければならない。さらに本書が重視するのが、オーディエンスが各自バラバラに分散しているのではなく、共同体(ファンダムと呼ばれる)をつくってコンテンツについての発信を行う点だ。その発信がコンテンツの展開を動かしもするという。

 このようにオーディエンスの参加を強調するとなると、次のような結論を期待するかもしれない。伝統的な一対多のメディアのあり方は終わりを迎えている。これからは一人ひとりがつくり手となる時代だ、と。しかし著者はそう考えていないようだ。確かにつくり手と受けて手の区別はゆらぐ。しかしなくなるわけではない。コンテンツをまずつくり発信する側と、それを受け取る側という大まかな区別は残る。変わってきているのは、(多分)多くのチャンネルを通じて受け手が反応し、それが従来よりも強く、すばやくつくりて手の活動に反映されるようになったことや、通信技術の発達によりオーディエンス共同体の形成なり分化なりの速度が加速していることだろう。それにより、つくり手とオーディエンスの関係は目に見える形で複雑化する。両者は時に協働するものの、時には激しく対立する。両陣営の一筋縄ではいかない交渉の有様を「コンバージェンス・カルチャー」としてとらえて、いくつかの事例を分析するのが本書の主な内容となっている。私でも名前くらいは知っている『スター・ウォーズ』や『マトリックス』も取り上げられる。

 本書の対象はアメリカの事例に限定されるもの、同じようなコンバージェンス・カルチャーは日本にもありそうだ。「公式」や「運営」に対する称賛や怨嗟の声にインターネット(の一部)は溢れかえっていないだろうか。あの激しさはなんなのか。それを考えるヒントを本書は与えてくれるだろう。

 最後に読み方について。イントロダクションはやはりかなり難しいので、帯にも書いてあるコンバージェンスの定義と、このブログ記事の内容(間違っていたらすいません)程度を頭にいれたら、いきなり本編の事例研究から読みはじめるのがよいと思う。そこは肩の力を抜いて楽しめそうなので。私も楽しもうと思います。