マレシウスの自由判断論 Hampton, "Sin, Grace, and Free Choice" #1

 

  • Stephen Hampton, "Sin, Grace, and Free Choice in Post-Reformation Reformed Theology," in The Oxford Handbook of Early Modern Theology, 1600–1800, ed. Ulrich L. Lehner, Richard A. Muller and A. G. Roeber (Oxford: Oxford University Press, 2016), 228–241, here 228–231.

 改革派の罪、恩寵、自由判断の教義について、サミュエル・マレシウスの教えを中心に解説した論文を読む。非常に勉強になる。

 マレシウスは Theologiae Elenchticae Nova Synopsis のなかで、改革派は人間の自由判断(liberum arbitrium)を否定しているという批判に応答している。マレシウスによれば、改革派は人間の自由判断を肯定している。ただ、非決定の自由を否定しているだけである。非決定の自由とは、たとえどのような条件が整えられようとも(たとえば、神の恩寵が与えられたとしても)、人間には何かをすることを差し控えることができるということを意味する。

 なるほど、自由判断の能力を、それを取り囲む条件から切り離して考えるなら(in sensu diviso)、それは様々な選択肢のなかから行為を選ぶことができる。しかし、それを規定する条件とセットで考えるなら(in sensu composito)、それにはある行為を差し控える自由はない。もしそれができるなら、人間は神の摂理を無効化できることになってしまう。また、人間の行為というのは、知性のうちで「実践理性が下す最終的な判断」に従うものである。もしこの判断すら人間が覆せるなら、そもそも人間は理性的な存在ではなくなってしまう。

 ここからマレシウスは、自由判断というのは、単純に意志と同一視できないという。というのは、ある行為を選ぶということは、知性が下した判断に従うということであり、このとき意志はその判断に必然性をもって従うからである。よって、知性による判断こそが、意志の能力をなにかを意志することへと決定する。またここから自由判断が、強制と両立しないことが分かる。というのも、強制されるとは、知性による判断とは異なることを強いられるということだからである。

 とはいえ、自由判断はある種の必然性とは両立する。まず、神への依存という必然性と両立する。また道徳的な必然性とも両立する。イエスの道徳的な性質は、彼が罪を犯すことを許さない。それでも、彼の良き行動は自由に選ばれたものである(彼の知性による判断に従ってなされたものである)。堕落した人間の行動は常に罪深い。それでも、その者たちの行動は自由である(その者たちの知性による判断に従ったものである)。

 また、自由判断は神の決定からくる必然性とも両立する。なるほど人間の行為は、一度神の決定が下されたならば必然的である。しかし、それはあくまでそのような神の決定が下されたならば、という条件のもとでの必然性である。絶対的な必然性ではない。別の決定が下されていたならば、別の判断がなされていただろう。

 マレシウスの考えでは、意志というのは実践理性の最終的な判断によって決定される。しかし、この見解は改革派のあいだであまねく受け入れられていたわけではない。ペトルス・ファン・マストリヒトは、Theoretico-Practica theologia のなかで、マレシウスに反論している。もしマレシウスが正しいなら、人間を回心させるために恩寵は知性だけを照らし出せばいいことになる。しかしこれは聖書の教えに反する。よって意志が知性の判断に従うのは、その判断が意志のあり方に合致している場合だけだとマストヒリとは考える。このため回心のためには、意志のあり方も恩寵が変えなければならない。