ウォルスティウスとゴルラエウス Lüthy, David Gorlæus, 3.10

  • Christoph Lüthy, David Gorlæus (1591–1612): An Enigmatic Figure in the History of Philosophy and Science (Amsterdam: Amsterdam Amsterdam University Press, 2012), 119–122.

 

 

 ゴルラエウスと、神学者コンラッド・ウォルスティウスの関係について論じた箇所を読む。非常に駆け足でウォルスティウスの学説を紹介しているため、厳密に彼の論理をたどるのが難しい論述になっている。

 1641年にギスベルトゥス・ヴォエティウスは、ゴルラエウスの哲学を、ニコラウス・タウレルスとコンラッド・ウォルスティウスと結びつけていた。より正確には、ゴルラエウスが、人間は偶有性によって一つであるという見解をタウレルスから学んだとしたうえで、タウレルスをハイデルベルク神学者たちが、彼らがウォルスティウスを批判する文書のなかで無神論者と呼んだことに触れていた。

 ではゴルラエウスの哲学と、ウォルスティウスの神学のつながりはなんなのだろうか。ウォルスティウスの学説のうちで断罪されたものは、大きく分けて2つに分かれる。一つはキリストの地位を神にたいして相対的に下げるものであり、これはソッツィーニ主義との批判を招いた。もう一つは、予定に関するものである。ウォルスティウスによれば、神の正義というのはその本質を形成していない。そのため信仰というものを、神が罪を許してくれたことを信じることとして理解するのはあやまっている。なぜなら、罪を正義にしたがって許すというのは、神の本質には属さないからである。ここから、人間と神の関係というのは、改革派の正統派が考えるよりも遥かに開かれたものになる。というのも、神の本質に正義にしたがって罰するということが属さず、それゆえ人間の本質にも罰される(あるいは救済される)ということが属さないならば、人間がこの世界で行うこと次第で、神から許されるということがありうるからである。

 しかし、このように個人の行いによって許される可能性が開かれるとすると、神が全知であり、永遠の昔からすべてを予見していたという教義と衝突しないだろうか。この点に関してウォルスティウスは、神というものは時間のうちで変化しうると考えた。神が心変わりした事例は大量に聖書に記されているではないか。

 こうして、神による(救いや罰に関する)決定というのは、その本質からは分離され、神にとっては偶有的なものになる。よって、決定を下す意志は変わりうる。また、神はこの地上にその本質でもって遍在しているわけではない。そうではなくその活動によっていたるところにいるのみである。また神にとって永遠性というのは、分割不可能な総体ではなく、過去、現在、未来へと続く継続である。神は未来の出来事を、過去の出来事のようには知らない。彼はすべてを一挙に直観するのではなく、一つ一つのことを人間のように順番に考えることができる。よって、彼の自由意志に依存する決定というのは、永遠の昔から決まっていたわけではない。

 このように考えるなかで、ウォルスティウスは神を他の存在ensと同じように考えることで、神を物質化しているという批判を招いた。イングランドからは、ウォルスティウスの異端によれば、「神は本質的に広大ではなく、端的に無限でもない。そうではなく神はquantum(量的なもの)であり、有限であり、ある場所におり、ある仕方では物体的であり、ほぼ質料と物質からなっている」という。

 ウォルスティウスの神学からゴルラエウスは何を学んだのか。まず他の事物と同じような存在(ens)として神を理解する点を学んだと思われる。ゴルラエウスも哲学というものを、存在に関する知識と定義していた。またゴルラエウスが第一哲学を、自然学、天使学、神智学に分け、最後の部門を「神の本性とその属性」であると呼んだことにもウォルスティウスの依拠が現れている。というのも、これはまさにウォルスティウスの著作名であったからである。