性を通じて働く権力 中山『フーコー入門』第5章

 

必要があって、フーコーの入門書から『知への意志』を取り上げた箇所を読む。フーコーは19世紀半ばから、社会が有機体的なモデルで理解されるようになるとともに、その社会を支配する新しいタイプの権力である「生-権力」が出現したと考える。この権力の特徴は、性(セクシュアリティ)を通じて働く点にある。

 近代のブルジョワ社会では、性に過敏になるという特徴をもつ。この時代に、人びとは自らの性について、告白をしはじめる。これに伴い、性についての科学が生じる。そこでは、性についての正常と異常の区別が、科学的な真理というお墨付きを与えられる。それにより、人びとが行う性についての告白の内容も、その人についての真理を構成するものと考えられるようになり、性に関する告白を通じて人間のアイデンティティも形成されるようになる。

 性の問題は、個人の問題であるだけでなく、国家の問題にもなった。より強靭な社会を作り出すために、生殖が出生率の問題として管理されるようになる。子を生み・育て、良き市民を輩出しつつ、家庭を維持する役割を担う女性の身体が重要性を帯びる。子どもの自慰や同性愛は、性的な倒錯であり、たとえば自慰は子どもたちから繁殖の能力を奪うとして、厳しく管理された。他にも数多くの性倒錯のカテゴリーがつくりだされ、該当すると認定された者は、医学的な調査の対象となった。このような性をめぐって展開された一連のテクノロジーは、制度、法、道徳、科学、医学的診断といった様々な要素からなる性の装置によって実現可能となっていた。

 性倒錯を危険視する発想は、優良な種としての人種を守るという考えとつながり、ここから近代の人種差別が生まれた。ここでは、国家が医学や生物学を通じて人種を区別し、維持すべき人種の維持に有害とみなされた者を排斥する。

 このように、近代社会は性を通じて、個人のアイデンティの形成を促すとともに、性を通じて種というマクロな単位を生かすことも目指したのであった。

 

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