デカルト主義の聖書解釈法 Savini, "Methodus cartesiana ed esegesi biblica"

  • Massimiliano Savini, "Methodus cartesiana ed esegesi biblica: l'apporto di Christoph Wittich alla polemica copernicana in Olanda (1650–1659)," in Studi cartesiani : atti del Seminario Primi lavori cartesiani. incontri e discussioni, Lecce, 27-28 settembre 1999, ed. Fabio A. Sulpizio (Lecce: Milella, 2000), 303–331.

 ウィティキウスの聖書解釈の特徴を、クラウベルクへの依拠のうちに見ようとする重要な論文を読む。

 ウィティキウスをはじめとするデカルト主義者たちは、聖書のうちに天動説を支持するように読める箇所があったときに、次のように論じていた。これらの箇所は大衆の理解力に適応させられる形で書かれている。よって、そこに自然に関する真理を読み取るべきではない。これに対しては保守派の神学者たちから次のような批判がなされていた。デカルト主義者たちは、聖書のうちに理性が教えるところと合致しない記述があれば、それを大衆の理解力に合わせて書かれたものと解釈している。これは、理性に聖書を従わせようとすることに他ならない。

 デカルト主義者たちが聖書の解釈の基準として理性を採用していたということは、今日でも広く受け入れられているように思われる。しかし、著者はこの理解は間違っていると主張する。

 このことを理解するためには、ウィティキウスの聖書解釈が、クラウベルクのデカルト主義論理学に依拠していることを押さえなければならない。クラウベルクは、言葉の解釈の重要性に注意を促していた。まずクラウベルクは、私たちが幼少期に感覚から得られた情報をそのまま信じ、結果として偏見を抱くようになることを確認する。だとすると、論理学はこの偏見にとらわれている私たちの通常の状態に適応したものでなければならない。ここから論理学は大きく2つの目的をもつようになる。一つは、私たちが自分で正しい認識をもてるように、私たちを導くものである。もう一つは、私たちが他人の導きで正しい認識をもてるようにするために、他人の言わんとすることを正確に理解させることである。この後者の目的のために、クラウベルクはある文言を理解するためには、そこで使われている個々の単語の意味を知るだけでなく、誰がその文言を発したのか、それを解釈する者の目的はなにか、それはなんのために発話されているのか、どのような状況でそれは発話されたのか、を知らなければならないとしている。

 このクラウベルクの理論を、ウィティキウスは聖書解釈に適用した。聖書はなんのために書かれたのか。救いを知らせるためである。それは誰に対して書かれたのか。偏見を脱していない大衆のためである。ここから、大衆に救いを知らせるために、聖書は自然に関する記述では、大衆の理解力に適応させられる形で書かれているということが結論できる。これにより、聖書で意味されていることと、それを意味するためのやり方の区別ができるようになる。意味されていることは救いについての教えであり、それを意味するためのやり方として、大衆の理解力に適応させられた表現があるのである。このうち前者だけが、聖書の教えとして尊重されなければならない。

 以上の解釈を導いているのは、あくまで聖書が誰に対して何を伝えようとしたのか、という問いである。ウィティキウスは、聖書を理性に従わせているわけではない。