新カント派のはじまりのはじまり Beiser, Genesis of Neo-Kantianism, ch. 1, #1

The Genesis of Neo-Kantianism 1796-1880

The Genesis of Neo-Kantianism 1796-1880

 新カント派の歴史を扱う書物から、フリースをとりあげた章を読む。今回は前半部である。

 ヤコブ・フリードリヒ・フリース(1773–1843)の名前が新カント派の歴史のなかで言及されることは近年まれである。しかし彼こそは、ヘルバルトとならんで新カント派の創設者であった。フリースは誰よりもはやくカントへの回帰を提唱していた。その立場から非常にするどく思弁的観念論を批判していた。彼はどの観念論者よりもカントに忠実であった。彼の影響は死後も続いた。死の直後には、 Ernst Friedrich Apelt のもと、イェナにフリース学派が誕生した。さらに1903年にはゲッティンゲンで Leonard Nelson の指揮下に新フリース学派が生みだされた。フリースが新カント派の歴史で果たした役割は三つである。第一に彼はカントへの心理学的なアプローチの創始者であった。また新カント派のなかで科学的アプローチを重視する最初の人物であった。第三にカントの超越論的観念論を人類学的に解釈することを主導した。この章では『新理性批判 Neue Kritik der Vernunft』(1807年)にいたるまでのフリースの活動を概観する。

カントの発見

 フリースは1792年から95年までニースキーのモラヴィア兄弟団のセミナリーで教育を受けた。フリースはまずラインホルトの『根元哲学』に導かれてカントに取りくんだ。そこでラインホルトの方法とカントの方法のあいだの大きな齟齬に気がついたというのである。ただしここでフリースが読んだのはカントの「懸賞論文」と『プロレゴメナ』であった。そこでは分析方法が使われており、それはたしかにラインホルトの総合的方法とは異なるものであった。もしフリースが批判期のカントに最初に出会っていたら彼の反応は異なっていたかもしれない。そこでは総合的方法が用いられているからである。いずれにせよ、ここにフリースの目標がたてられた。批判哲学の元来の方法である分析的方法をラインホルトや、観念論者に抗して復興させようというのだ。さらにこの分析的方法は、経験科学としての心理学にもとづくべきものとされる。私たちの日常経験の観察から、そこで用いられている能力を分析し(区分し)、それを通じてカントが批判書で展開する能力論を経験的に基礎づけるのである。これはいわば、批判哲学に「懸賞論文」の分析的方法を適用する試みであった。

心理学の正当化

 1796年にライプツィヒで、フリースはいくつかの重要な草稿を作成している。そこでまずフリースは、認識とは心の状態なのだから、これは心理学によって経験的に探求されねばならないと宣言する。しかしだからといって彼が経験の条件であるような、超越論哲学の第一諸原理と、経験的に得られる知識を混同したわけではない。むしろ彼はこの二つを鋭く分けた。第一諸原理は経験的知識によって論理的に正当化はされない。しかし経験的知識は第一原理の発見に必要だという。ここからフリースは、超越論哲学の原理を、経験からでなく、直観される原理からひきだそうとするラインホルトやフィヒテの方法を批判した。心理学という経験科学によって、超越論の原理を見つけるという手法は、G.E. Schulzeによるカントとラインホルト批判に応えて考えだされたものと思われる。しかしそうすると超越論の原理は結局証明できないのだろうか。フリースは、心理学は原理を論理的に証明はできないものの、その原理がなければ人間は感覚したり思考したりできないはずだというかたちで、その必要性をしめす事はできると考えていた。この考えが後年発展させられる。

初期の心理学プログラム

 フリースは自らの研究を予備研究(propadeutic)と呼んでいた。それはさまざまな認識の種類を発見し、それがなにに由来し、それがいかなる能力に属し、またそれらが互いにいかなる関係に立つかを確定する。この予備研究は、彼のいう「普遍的で経験的な心理学」の準備をなす。それはすべての人間に観察され、また内的経験の観察によって明らかになるような、心で働く一般的な法則をあきらかにしようとするものである(内的経験の究明に専念するので、心身問題は問わない)。このような経験科学がどうして超越論の原理を提供できるかというと、そもそもカントの超越論哲学は心理学的な基礎をもつからである。超越論の原理が経験の条件であり、経験が人間を離れてはないならば、その原理は人間の能力のうちに基礎をもたねばならない。[37–38ページは理解が行き届かないので割愛]

イェナでの出会い

 1797年にフリースはイェナに移る。そこでフィヒテの講義を受けて失望する。新カント派の歴史にとって重要なのは、同地でフリースがカール・クリスティアン・エルハルド・シュミッドにであったことである。彼は最初期のカント主義者であり、ラインホルトやフィヒテの批判者であった。カントを心理学的に解釈していく点で、シュミッドとフリースの目標は一致していた。そのため彼らは手を取りあい、フリースはシュミッドの雑誌に寄稿することになる。またイェナでフリースは、Alexander Nicholaus Scherer に師事し、化学を学ぶ。そこで彼はカントに反して、化学のうちに数学的法則を発見しようとしたのだった。

医学への進出

 いろんな経緯があり、フリースは1803年に医学についての論文を出版する。彼によれば、科学における説明のパラダイムは、事象の物理的な説明であり、これは数学的説明にほかならない。このパラダイムにのっとる生理学を構築することはまだほとんどできていない。しかしフリースはそれは原理的には可能だと考えていた。この点で、彼はカントと異なる。カントは有機体については機械論的な説明を与えることはできないとしばしば言明していた。とはいえ現状では、医学はより実践的でなければならない。数学的説明を与えようとするのではなく、観察に基づき治療に必要な知見を蓄積すればよい。大切なのは、哲学的・数学的レベルの説明と、経験的なレベルの説明を混同しないことである。まさにこの混同をおかしているのがシェリングであった。彼は自らの一般理論を具体的な患者に適用している。しかしそれは危険である。実際、シェリングにはこれにより恋人の娘を死に至らしめたという疑惑があった。よりすぐれた生理学はジョン・ブラウンのものである。観察にもとづいたものだからである。フリースの理解によれば、ブラウンの理論の中核にあるのは、興奮性(Erregbarkeit)の概念である。興奮性とは身体のある部位が、どの程度外部からの刺激をうけ、またその刺激に対してどの程度反応するかを指す。身体の各器官はそれぞれの興奮性をもち、その総体として人間がある。そのため個々の人間にはそれぞれ適切な刺激の量がある。よって刺激が少なすぎたり多すぎたりすると病気になる。医学論文にあらわれたシェリングとの対立はより本格化していくことになる。